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R.咲くや姫

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2024.06.12
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カテゴリ:学ぶこと






徳川将軍家も十二代家慶の頃から
翳りを見せて来ます。

十二代代将軍「徳川家慶」は、1793年(寛政5年)、
十一代将軍「徳川家斉」と
側室「香琳院との間に
次男「敏次郎」として生まれました。


兄の「竹千代」が早世したことから、
徳川家慶は若くして将軍の後継となったのですが

​​​父である十一代将軍・徳川家斉は
江戸幕府歴代将軍のなかで
最も長期間将軍の地位に就いていたため
その長い治世の間に幕閣内では賄賂が横行し、
政治は腐敗。
徳川家斉は贅沢な生活を送り、
幕府の財政を逼迫させてしまうことに繋がりました。
(何しろ、側室が多くて子供が多い)

しかし、皮肉にもこの贅沢な気風が
徳川家斉の治世に影響を及ぼし、
「化政文化」と言われる華やかな
町人文化が花開くきっかけにもなったのです。​​​


​​1837年(天保8年)、
徳川家慶は歴代最高齢の45歳で12代将軍に就任。
しかし、父・徳川家斉は「大御所」として
実権を握り続けたため、
徳川家慶の発言力はほとんどなく、
政務に深く携わることもありませんでした。

父・徳川家斉は大御所となってからも
贅沢な暮らしを続け、幕府の財政を圧迫。
このことから考えても徳川家慶と父・徳川家斉の
仲は良好ではなかったとされています。

家慶の時代は天保12年閏正月30日に、
家斉が69歳で亡くなってからと
言っても過言ではありません。




そしてここから始まるのが、
老中首座水野忠邦が主導する「天保の改革」です。

(天保の改革は江戸時代における
3つの改革の最後の改革ですが
この3つの改革は全部失敗に終わっています)




幕府は文政期以降、財政を立て直すため、
貨幣鋳造を続けていて金銀の含有量を減らすことで、
これまでの貨幣との差額を幕府の収入としました。
品質を下げた貨幣が
世の中に多く流通するすることで
インフレを招き、物価は上昇することになります。

忠邦は、その原因を奢侈に求め、
徹底的な贅沢の取り締まりや倹約令を
庶民から武士に至るまで科すのです。
 

 また、株仲間を解散させ、
自由に取引をさせることで、
物価上昇に歯止めがかかると考えました。
さらに江戸の人口を減らし、
農村の人口を回復させるために、
「人返しの法」を発布しましたが、

​​この忠邦のやり方に反対したのが、
TVの「遠山の金さん」で有名な
当時の北町奉行、遠山景元です。

水野忠邦が「人返しの法」でその日稼ぎの者を
江戸から減らすことによって、
飢饉の際の一揆や打ちこわしを
防ぐことを考えたのに対して、
遠山は、町会所に設置する囲米などの
救済措置であらかじめ飢饉に
備えようとしました。​​

 

​​​ また、江戸の人口が減少することで、
武家や町家の奉公人のなり手が減り、
労働力不足から彼らの賃金が上昇し、
物価上昇にもつながると指摘し、
贅沢の取り締まりについても
水野忠邦と悉く対立するのです。

水野忠邦は老中
遠山景元は町奉行
なんだか、あまりにも役職の違いが
あるにもかかわらず、何故対立出来たのか?
それは、​将軍家慶​の存在が大きい。


将軍は一代に一度、
三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)の裁判を
上覧する公事上聴(くじじょうちょう)という儀式を行っていました。
家慶の時には8人の奉行が2件ずつ
将軍の前で裁いたのですが、
その中で遠山だけ、
家慶からお褒めの言葉を賜ったと言われています。
家慶が認めた名奉行に、
水野忠邦もうかつに手出しが
できなかったのではないかと考えてます。





さて、 

​​ そしてもう一人、忠邦が悩まされた相手として、
​大奥の上臈年寄姉小路​が挙げられます。

姉小路は、楽宮喬子が
家慶の正室になる際に京都から同行した人物で、
​家慶政権期の大奥で最大の実力者​といわれました。​​

​ 
贅沢は敵だみたいに言っている水野忠邦が
大奥に経費削減を求めたところ
姉小路は

「男性から隔離された環境にいる大奥の女性たちから、
美味しいものを食べ、
美しい着物を着るという楽しみを奪うのか。
また、御老中様も
お妾が4~5人いるのでは。」

などと言って黙らせたという
エピソードが伝わり今に残っています。​

 

​​​

 

​大奥は、表面上は
「表」の幕府や政治とは関係を深く持たず
口出ししてもいけないのですが
「裏」では相当な「力」を持っていました。


将軍の母親や
将軍の正室と側室
それを取り巻く多くのお女中たち。
一筋縄ではいかない大規模な女性の組織です。





徳川家慶には、14男13女の子供達がいましたが、
次代将軍となる「徳川家定」を除く、
すべての子供が20歳を前に亡くなっています。

なんだか、これも怪しい陰謀が
あったような無かったような気もします。


家慶の家系図は
以下の通りです。






「内憂外患」の当時の日本。


18世期末から19世紀にかけて、
徐々に外国の船が日本近海に現れ、
日本を取り巻く環境は変化していきます。
財政面などの内憂だけではなく、
諸外国の力が日本にも手を伸ばして来ようとする、
外患とも戦わなければいけませんでした。


だんだん、幕藩体制が
崩れてゆく兆しですね。




(浮世絵や家系図はネットから
お借りいたしました)







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Last updated  2024.06.12 12:10:10
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