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新 緑仙の日々是好日

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R.咲くや姫

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2024.07.24
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カテゴリ:学ぶこと




徳川家定は

嘉永6年(1853)父の家慶の病死により、
30歳で13代将軍に就任します。

「嘉永6年」この年は
我が国にとって
歴史的に大変な年です。


船「ペリーの浦賀来航」船





黒船の来航のまさにその直後に家定は
13代将軍になったのです。


今までにも江戸幕府は
対外政策を少しはしていたのですが
これほどに対外問題が
クローズアップされたことは
ありませんし、幕藩体制が崩れてゆく
大きな出来事でした。



13代将軍は
元来、病弱であったとされています。
疱瘡を患ったとか‥
脳性小児麻痺とか‥

家定は「うつけ」とか「暗愚」とか
言われていますが
実際はそうではなく病弱だったので
そのような噂が出たのかもしれません。

それでも
将軍職に就く以前に
2人の女性を正室に迎えています。

一人目は「鷹司任子」
しかし、
1848年(弘化5年/嘉永元年)6月に
疱瘡を患ったことにより、26歳の若さで逝去。

そのため徳川家定は翌年の11月に、
左大臣を務めていた「一条忠良」の
十四女「一条秀子」と2度目の婚姻関係を結びますが、
半年余りあとに一条秀子も急死。


そのあとに正室となるのが
大河ドラマで有名になった「篤姫」です。




家定の実母は「本寿院」で
大奥での権力を握っていました。
夫の家慶然り、大御所の家斉然り
たくさんの「お手つき」がいて
大勢の子供を産ませておりました。
上様の
子供を産むということは
大奥の女人にとっては
大出世なのです。
勿論、「世子」ともなれば
話は別です。





例えば、五代将軍綱吉の生母は
京都の八百屋の娘「お玉」で
のちの「桂昌院」ですし、
七代将軍家継の生母は
僧侶の娘「お喜世」のちの「月光院」です。


ものすごい権力ですよ。
余談ですが、現代の京都の寺社の数多くを
桂昌院が寄進して建てています。



家定は将軍職に就いていながら
身体が弱かったせいか政務よりも
お菓子作りが好きでした。
これは、ものすごく珍しいことで
そもそも将軍様が自ら料理をするなど
有り得ないことです。

カステラやボーロ、炒り豆や
餅を焼いて家臣に食べさせたとか
そういったエピソードが残っています。
確か、ドラマでも
そんな手作りお菓子を食べるところが
演じられていますね。

ともあれ、
13代将軍の大問題は
お世継ぎと外交です。


ここで改めて
徳川家の系図を見てみましょう。




家康から始まり15代将軍慶喜まで
徳川家は260年余り
連綿と続いてきたわけです。


この時に
政務の中核を担っていたのが
老中阿部正弘です。

阿部正弘は
水野忠邦と違って
大奥でも人気があり
外様大名との交流もあり
大奥にも出入りが出来たようでした。

老中阿部正弘は
薩摩藩主・島津斉彬や、越前藩主・松平慶永などの
雄藩大名と協調を図り、
前水戸藩主・徳川斉昭に幕政参与を要請しました。
「開国」という、従来の幕政では考えられない
急進的な政策を遂行するには、
権力者の協力が必要だったのです。


その頃の大奥自体は「外交問題」よりも
「お世継ぎ」の方が重大事項なのは
当然のことで
この13代将軍が病がちであることを
懸念していました。

家定と篤姫の関係は
今までの将軍と正室とは違い
割と仲睦まじく暮らしていたと
言われています。
ただ、子供が出来ることはありませんでした。

家定は、祖父、父とは違い
側室は一人だったと言われていて
残念ながら、子は持てませんでした。


嘉永7年安政元年
アメリカのマシュー・ペリー提督が2度目の来航。
アメリカ船が日本沿岸で
燃料や食料を補給することを
受け入れる内容の
「日米和親条約」を結びます。


安政4年
初代駐日アメリカ領事となる
タウンゼント・ハリスが
江戸城に登城して徳川家定に謁見。

この時の逸話がいろいろと
面白く描かれているところから
「暗愚」や「うつけ」と
言われた所以ではないかと思います。


そして、13代将軍家定の時の
お世継ぎ問題は
完全に二派に分かれて
鎬を削っていたのでした。





歴史が詳しくない人でも
聞いたことのある有名人が
たくさん登場する頃で
世の中が大きく変わろうとしていました。
幕府の力が弱くなってきたのですね。


阿部正弘は
「将軍継嗣問題」にも頭を悩ませながら、
安政4年(1857年)に
39年の生涯に幕を閉じてしまいます。


このあと、
大老に就任したのが
あの「井伊直弼」です。

「安政の大獄」という時を迎えます。


大奥は上様ご逝去で大混乱になります。
篤姫の結婚生活は2年にも満たなく
篤姫は24歳の若さで
落飾してしまいます。


大体、歴史ドラマや歴史小説が
一段と興味深くなってくる頃ですが
日本は混迷の深い闇の中へと
突き進んでいくのです。




大奥のことが
何度も描かれるこの時代ですので
次回も篤姫がどう大奥に
存在したかを紐解いてみたいと思います。



(浮世絵や系図等々はネットからお借りしました)






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Last updated  2024.07.24 12:10:07
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