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カテゴリ:歴史
つい先日、愛知県幡豆町にある三ヶ根山に登り、「殉国七士の墓」というのを見てきた。
「殉国七士の墓」については、内田康夫氏の「三州三河殺人事件」という本で、ちらっと読んだことがあって、機会があれば一度は行ってみたいと思っていたのだが、その「行ってみたい」が、このところ急に「行かねばならない・・・」という使命感にも似た気持に駆り立てられてきた。 この「殉国七士」とは、太平洋戦争(第二次世界大戦)の責務を問われ、アメリカ・中国・イギリスなどの11カ国による極東軍事裁判で、A級戦犯に指名され、処刑された東条英機、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、武藤章、木村兵太郎、広田弘毅の7人のことを指している。 (このとき、刑務所と処刑場に使われたのが、あの池袋サンシャインシティが建っている場所にあった「巣鴨プリズン」だったりする!私も、内心、最初にサンシャインに行ったときは恐かった~!) 三ヶ根山スカイラインという有料道路の、まるで日光いろは坂のような、くねくねとした山道を登ると、眼下には三河湾の美しい眺めを望むことが出来る・・・。 その有料道路の主線から、奥に入り、ひっそりとした木立の中を分け入った中に、突然、巨大な七国七士の碑が姿を表し、その先には、公園のような整備された光景が広がっていた。 正直、A級戦犯の墓というのだから、藪の中にひっそりと小さな石碑が立っているだけだろうと思っていただけに、この立派さに驚いてしまった・・・。 石碑によると、昭和23年12月23日に処刑された7人のA級戦犯らの遺体、または遺骨の遺族への引き取りが、当時占領軍として来日していたマッカーサー指令部からの許可が降りなかった為、それを不憫に思った担当弁護士の発案で、火葬場長・火葬場そばの寺の住職らの協力を得て、遺骨を米軍の目を掻い潜りながら持ち出す作戦に出たらしい。 しかし、遺骨の前で線香をあげてしまったことから、この匂いを不振に思った米軍により取り返されてしまった・・・。 (ちょっと間がぬけてないか?) そこで、翌日の24日、クリスマスイブで米軍が浮かれまくっている最中、これ幸いとばかりに黒装束身を固めた弁護士ら(ここまでくると、はっきり言ってお笑いだ!)が、見張りの目を盗みながら、暗闇の中、7人の遺骨奪取に成功した。 それからしばらくは、伊豆の山中にこれらの遺骨は隠されていたのだが、GHQも去り、ほとぼりが冷めた昭和35年8月16日、ここ愛知県の三ヶ根山に墓碑が建立されたとのこと・・・。 この石碑を建てた人物が、黒装束の弁護士ということで、石碑の内容が「いかに自分達が苦労して遺骨を取り出したか」に終始していたので、ちょっと引いてしまったが、要するに、ここがA級戦犯の方々が眠る、本当のお墓というわけである。 そのほかにも、ここには、海外の戦地で亡くなった兵隊達の慰霊碑が数多く建っている。 こういう場所に来ると、普通は霊が集まっているような空気のよどみを感じるところだが、ここは、不思議とそういうものは全くなく、清浄な雰囲気に包まれている・・・この清清しさは、もしかしたら、国のために立派に戦って、散っていった兵士達のプライドの表れなのかもしれない・・・。 この方達にとって戦争とはなんだったのであろう? 何故、日本はあの戦争に突入しなければならなかったのか・・・? A級戦犯は、本当に罪があったのだろうか・・・? 中には、戦前の日本を、まるで今の北朝鮮のようであったかのように、「あの時、経済封鎖されたから、戦争ふっかけたんだろ?」なんて、思う人もいるかもしれない・・・しかし、それは大きな間違いである。 戦争とは・・・太平洋戦争が日本の真珠湾攻撃から始まったとされているように、ひとつひとつ単体のものとして区切って語られるものではないと思っている。 日本が戦争に関わらざるを得なくなったきっかけを語るには、1840年、中国(清国)で起こったアヘン戦争にまで遡らなければならない。 このアヘン戦争とは、当時、中国から紅茶を輸入していたイギリスが、それにかわる輸出品がなかった為、国内で禁止されていたアヘンを中国に輸出し、中国の人民を退廃させてしまう。そして、そのアヘン輸入を禁じた中国に、イギリス側が自由貿易を口実に戦争をふっかけたものである。 しかし、眠れる大国・中国は、近代化が遅れていたこともあって、イギリスにボロ負け・・・戦争の賠償金として、莫大な銀と香港の領土を取られてしまった・・・。 「中国は弱い!」そのことに味をしめてしまった欧米諸国は、次々と難癖をつけては中国に戦争をふっかけ、その度に多額の賠償金と領土をせしめるようになる。 それは、まるで中学生の不良が、金持ちだけどケンカの弱いボンボンを脅しては、際限なく金を巻き上げている構図と同じように思える・・・。 やがて、日本にも、ペリーの艦隊がやってきて開国を迫まってきた・・・傍らで中国の悲惨な状況を目にしていた日本としては、戦争と言う圧力で迫ってくる馬鹿でかい奴らが、それはそれは恐ろしかったに違いない・・・日本も、それ相応の力を付けなければならない・・・開国後、明治維新を迎えた日本は富国強兵という対策をとって欧米列強に立ち向かわなければならなかった。 そうしなければ、植民地化されてしまう・・・食うか食われるか・・・そんな瀬戸際だったに違いない。誰が好き好んで富国強兵や戦争などしたいと思うだろうか・・・? そして、日本は、太平洋戦争で、フィリピン・タイ・マレーシアなど植民地化されたアジアの国々を欧米から解放した。 このことは、奴隷のように扱われプライドもずたずたになっていたアジアの人々を勇気付けた・・・。 「あんな小さな国でさえ頑張っている・・・自分達も、やれば独立できるかも?」そんな希望を与えられたアジアの国々は、戦後、欧米に立ち向かい、次々と独立していったのである。 (戦後、日本に帰らず、独立戦争に参加した日本兵もいたらしい・・・) しかし、日本は戦争に負けてしまった・・・。勝てば官軍・・・どちらが悪いのかはどうでもよく、戦争とは、結局は勝ったほうがすべてである。 こうして、日本は、戦勝国から裁かれることとなってしまった・・・。 日本は本当に悪かったのか?あの状態で戦争と言う道しか選ばざるを得なかった日本で、A級戦犯に、それほどの責任があったのだろうか?「殉国七士の墓」を見つめていると、そんなことが頭をよぎる・・・。 奇しくも、明日は12月23日・・・A級戦犯の処刑日である・・・。 もしかしたら、私は、彼らに呼ばれたのではないか・・・? おこがましくも、そんなことを思ってしまった・・・。 戦争体験者が教師の中にも少なくなり、戦争を伝えられる教師が少なくなっている今(それでなくても、教師には左の人が多いし・・・) 戦犯とされた方々、戦地で亡くなった兵隊の方々の無念の気持が伝わってくるような気がする・・・。 「私は、戦争を語るには非力な者ですが、それでも、皆さんのお気持・・・伝えるつもりです。 英霊の皆さん方、どうぞ力になって下さいね。」 三ヶ根山を後にし、 そう思いをこめながら、私は、日記に書くことを心に堅く誓っていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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