司馬遷のヒミツ・・・
皆さん、こんばんわ☆今回はウラではなく表のぷーたろですので、ご安心ください。ここで、いきなりですが、11,111番をゲットされたのが、ココログのぼんやりさんでした~!ありがとうございます~。他のブログの方はお名前が普通はでないんですけど、丁度、書き込みをしてくださったので、気がつくことが出来ましたよ。この方は、『平家物語』に関する事については、関連書籍から、フルタのフィギュア、そして、大河ドラマで放映しているタッキー主演の『義経』の情報などなど、たくさ~んの情報をお持ちでいらっしゃる、とっても楽しいお方なんですよ~!是非、遊びに行ってみて~!ところで、最近は、柄にも無く漢文学に関することを調べておりまして~。漢文学っていうと、ちょっと印象が堅いけど、でも、ことわざの「五十歩百歩」とかは孟子の言葉だし、「青は藍より出でて藍よりも青く」は荀子(じゅんし)でしょ・・・例をあげたらキリがないくらい、日本人には馴染みの深い言葉が、い~っぱいあるんだよね~。でも、本を読んでて、一番ビックリした・・・っていうか、インパクト強かったのは、やっぱり「司馬遷(しばせん)」かなあ??司馬遷は、紀元前150年くらいの漢の時代の人なんだけど、『史記』って言う、中国で一番最初に歴史の本をまとめたことでも知られているんだね。司馬っていうと、小説家の司馬遼太郎を思い出す人も多いと思うけど、実は、司馬遼太郎は「司馬遷に遼(はる)かに及ばず」ってことで、自分のペンネームを付けたらしいんだよね~。まあ、それだけスゴイ歴史家だったんだよね~。実はね、司馬遷が、どれだけ『史記』の制作に命を賭けていたか・・・っていうことを物語る、ものすごいエピソードがあるんだよ!それは、司馬遷の友人でもある武将の李陵(りりょう)が、匈奴(きょうど=モンゴル人)との戦争に負けて責任を取らなきゃいけなくなった時、漢の武帝に対して、彼をかばった発言をしてしまった為に、死刑を命じられてしまうんだ・・・。でも、司馬遷は、お父さんから受け継いだ『史記』が、未完成のまま死ぬ事だけはどうしても避けたい!そこで、考えた挙句、司馬遷は「宮刑」という、死刑よりもむごく、人間として最も屈辱的な刑を受ける事を、自ら選び取ったんだね・・・。宮刑が、何かって?いや~!女性の私からは、とても口に出来ない刑でございますよ・・・ま、いわゆる去勢ってやつです。それはそれは・・・男性なら想像つくでしょうが、七転八倒の痛みは大変なものだったらしいですわ・・・。そして、この刑が、やがて、宦官(かんがん)という去勢済みの男性官吏に繋がっていくんでしょうね~。(これと纏足だけは、日本人もマネできなかったというから、納得~!)まあ、こんな屈辱的な思いまでしたんだから、宮廷に対しても、ものすご~く怨みがあったんだろうね~。『史記』の中には、当時の王族の人たちが、如何にメチャクチャな奴等か・・・っていうことを赤裸々に書いちゃったんだね。例えば、父親である皇帝の葬式の日に、息子が、父親の愛娼と関係を結んでしまうとか、男性が好きだったとか・・・普通、ここまで書いたら、殺されちまうわな・・・ってことまで、あからさまに書いてる・・・(確かに、歴史家っていうのは、ジャーナリストと一緒で、時には勇気をもって真実を書かなきゃならないことも多いけど・・・)多分、自分が死ぬまで、これを表ざたにするつもりはなかったのかもしれないね・・・。そんな『史記』の「刺客列伝」の中から、「聶政(じょうせい)」という面白いお話を一つ・・・「聶政は、斉(さい)の国で、食用犬の屠殺をしていた人で、年老いた母と未婚の姉と共に住んでいた。そこへ、厳仲子(げんちゅうし)という偉い大臣が、聶政に暗殺の依頼にやって来る。単なる犬殺しの彼を、篤く敬ってくれた厳仲子に対し心打たれるものの、母親と姉のことを思うと、それは出来ない・・・とお断りした。しかし、母が亡くなり、姉が嫁ぐと、もう思い残す事はないとして、厳仲子の依頼を引き受けるのである。そして、暗殺は成功・・・だが、聶政は、自分に礼儀を尽くしてくれた厳仲子と、最愛の姉に迷惑がかからないようにと、自分の顔の皮を剥ぎ取り、目を抉り出し、腹を裂いてはらわたを取り出して、自害し果てる。恐らく、自分の身元が分からないようにするためだったのだろう・・・。その噂を聞きつけた姉は、弟は私の為に、名も無い者として葬られようとしている・・・それでは、あまりに可哀想だ・・・と、弟の名を残す為に、姉も自らその場で命を絶つのだった。」司馬遷は、こういった日の当たらない刺客たちの話まで、歴史書に残してくれたんだね・・・。命がけで、後世に残る歴史書を完成させた司馬遷・・・司馬遼太郎が、「遼に及ばず・・・」と謙遜した理由が分かるような気がするな!人気blogランキング(司馬遷に遼か及ばないどころか、どん底に落ち込んでいる私に愛の手を・・・)