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テーマ:国際恋愛(198)
カテゴリ:私のこころ
楽天で仲良くしてもらっているリアナちゃんの日記を読んで、ちょっと考えてしまいました。
実は私の人生の前半は、いじめられっこ人生でした。 もちろんそれは日本の学校での話です。 私のいじめられっこ人生は幼稚園入園のときから始まりました。 ◆◆幼稚園時代(4歳~5歳)◆◆ 私はM幼稚園に年中組から入園しました。 その時初めて担任になった先生が、ベテランのN先生と、まだ若い副担任のM先生でした。 この、ベテランのN先生、なんというか、自分の思い通りになる子=賢い子、と思っていて、えこひいきの酷い先生でした。 もちろん当時4歳だった私にそんなことがわかるはずもなく、それまで家でのんびりおおらかに育っていた私は、何をするにもマイペースでした。 しかし、N先生には私がのろまで、足でまといに映っていて、我が母は彼女に「サトちゃんはのろまなので、みんなの足手まといになっています。」と直接いわれたことが何度かあったそうです。 そんなある日、事件がおきました。今でも私の脳裏にしっかり浮かびます。 私は、幼稚園でトイレに行って教室に戻る途中だったと思います。あるいじめっ子グループに捕まってしまいました。必死に彼らの腕を振り解いて、泣きながら逃げて、先生に助けを求めに行こうと走ったら、N先生がいたので、 「せんせい、たすけて!」 と泣きながら訴えたのに、N先生は 「サトちゃん!廊下は走るところじゃないでしょ!!!」 と私に怒鳴ったかと思ったら、私の鼻先で職員室のドアを閉めてしまいました。 そして結局私はいじめっ子グループに追いつかれ、捕まり、いじめっ子グループの2人に押さえつけられて、いじめっ子のリーダーに両手で首を絞められました。 首を絞められると、声って出なくなるんですよね。 「たすけて」さえいえなくなりました。 しかし、運良く、ちょうど近くを通りかかった年長組の子達に助けてもらうことが出来ました。 その年長組の子達が、私の副担任M先生のところに連れて行ってくれて、M先生が母に連絡してくれて、すぐに母が来てくれました。 実はその後の記憶はあやふやなのですが、母の話だと、首を絞められて、少し鼻血が出ていて、涙と鼻血でグチャグチャな顔をしていたそうです。 そして、母はすぐに担任のN先生を問い詰めたそうです。 「何でこんなことになったのか?!」 って。 すると、N先生は 「逃げられなかったサトちゃんが悪いんです。のろまなサトちゃんが悪いんです。」 と母に言い放ったそうです。 もちろん母も負けてはいませんでした。 「もしあなたのご自慢の息子(N先生は地元の国立大学の医学部にストレートでは言った息子をいつもPTAに自慢していた)がサトと同じような目にあっても、今と同じようにいえるんですか?!」 といって、母は私を連れて家に帰りました。 ここから母とN先生の戦いが始まりました。 N先生は、母が仲良くしていたママ友たちに 「サトちゃんのお母様はどこの学校の出身なの?」 と聞きまくってたそうです。 実はN先生は、私の地元で一番優秀な高校を出ていて、そこからどこかの短大で幼児教育を学んだひとで、自分の学歴を鼻にかけていました。 で~も、彼女は調べれば調べるほど、我が母の学歴の方が高かったので、その方向で母を責めることが出来ませんでした。 私は私で、あのクビ絞め事件以降、登園拒否気味でした。毎日泣きながら幼稚園に強制登園させられてました。 母曰く、私がが登園しなくなったら、N先生の思う壺だと思ったから、だそうです。 そして、私はある日幼稚園からの逃亡を試みました。 N先生やいじめっ子がいるところにいたくなかったからだと思います。 でも、すぐにN先生に捕まってしまいました。 そしてN先生が私に尋ねました。 「誰がそんなにあなたを甘やかしてるの?!」 と。 「お父さん!!!」 と私は即答したのを覚えてます(笑)。 今思えば、そこで「お母さん!」なんて答えてたら、きっと彼女は鬼の首を取ったように母を攻め立てたことでしょう。 でも、答えがお父さんじゃ攻められやしない(笑) 結局、年中組だった1年間はずっと落ちこぼれ扱いでした。 でも、年長組になって、先生が変わったら、幼稚園が楽しくなったのを覚えています。 実は、数年前に、このN先生にお会いしました。 驚くほど彼女の人格は変わっていました。 なんというかすごく優しくて穏やかな感じでした。 母にそのことを話すと、 「N先生の息子、何度も医師の国家試験に落ちて、その後引きこもりになっちゃったらしいのよ。今はなにやってるのか知らないけど」 N先生が定義していた落ちこぼれに、今度は自分のご自慢の息子がなってしまったわけです。 それでどうやらN先生もずいぶん苦労したようでした。 ◆◆いじめられっ子人生 小学生編◆◆ このときのいじめは本当に酷いものでした。1年以上続きました。 今はこんな明るいサトですが、生まれて初めて自殺未遂したのは、小学生時代でした。 何でいじめの対象になったかというと、直接の原因は私の肌にあります。 私は生後10ヶ月からアトピー性皮膚炎を患っていました。 肌はいつも赤くなっていてざらざらしていたり、硬かったりしていました。 そういうことから、 「あいつに障るとビョーキになるぞ~」 とか 「あいつの近く半径1メートル以内に近づくと、エイズになるぞ」 といわれ始め、だんだんいじめがエスカレートしていき、はじめはクラスの一部の子にいじめられていただけだったのですが、他の子たちも面白がっていじめに参加してきて、ついにはクラス全員にいじめられるようになりました。 どんないじめだったかというと、上記のこと以外に、 ●朝学校へ行くと、私の机と椅子だけなくて、焼却炉の前に捨てられている ●机の引き出しの中身はゴミ箱に捨てられている。 ●掃除当番のときは、みんなに箒で叩かれ、汚い雑巾を顔に押し当てられたり、床(トイレ)をなめろといわれ顔を押し当てられる ●一日中無視される ●班行動のときは誰も班に入れてくれない ●仲間はずれ ●休み時間中の暴力 まぁ、ざっと思い出せるだけでこれくらいです。今思えば、この程度で済んでよかったと思っています。今現在のいじめは恐喝などもあるそうですから。 でも、その当時の私には生き地獄みたいなものでした。 いじめのことは、私からは母には言いませんでした。 近所のお母さんがたから、いじめの事実を知らされたそうです。 母は担任と教頭と校長相手に、いじめの事実を伝え、講義しました。 が、当時の校長と教頭、そして担任は役立たずでした。 わが身を守ることしかしませんでした。 その後、親にチクッたといわれ、いじめはもっとエスカレートしました。 そしてついに耐え切れなく遺書まで書いて、自殺しようとしました。 でも、未遂に終わりました。学校の屋上から飛び降りて死のうと思ったんです。でも、最上階まで行って、このドアを開けたら屋上に出られる!というところまできたのに、そのドアが鍵がかかっていて屋上に出られませんでした。 そしたら、急に今までのこと、いじめがすごくバカバカしいものに感じられてきたのです。 あんなバカな奴らのために捨てる命なんて持ち合わせてないぞ。人間死ぬ気になれば何でもできるじゃん。 実はそれまで1週間だか10日間くらい、登校拒否していました。 でも、自殺未遂の次の日から、学校に行きました。 死ぬ気になればなんだってできるんです。 案の定私の机は焼却炉の前に捨てられていて、それをクラスに運び入れてから、ゴミ箱の中にあった私の私物を拾い集めました。 そして、やっぱりリーダー格のいじめっ子が色々言ってきました。 私は何もいわずに彼を殴りました。 何度も何度も殴りました。 でも、その子が泣きながら謝ったとき、殴るのをやめました。 それから、誰も私をいじめる人がいなくなりました。 きっとみんなビックリしたんだと思います。 でも、これも因果応報です(復讐劇ともいう?・笑)。 ダーリンにそんな話をしました。 実は、私のこういう過去を今まで元彼たちには一度も話したことがありませんでした。 リアナちゃんの日記を読んで、いい機会だと思い、告白しました。 話し終わった後、ふとイライジャの顔を見ると、涙で目が潤んで真っ赤になってるじゃないですか!(驚) 一瞬嘘泣きかと思いましたよ! イライジャがいいました。 「泣きながら逃げて助けを求めたのに、誰も助けてくれなくて、首を絞められたなんて、小さなサトはどれだけ怖かっただろう。それなのにサトが悪いって言われるなんて。。。小学校でも毎日机や私物を捨てられたり、無視されたり、暴力を受けてたりしたなんて。。。もしその場に俺がいたら、その先生もいじめっ子たちも、みんなぶん殴ってやったのに!!」 と怒っていました。 もう大丈夫だよ、こういう経験のおかげで私はずいぶん強くなったから、と言ってイライジャを落ち着かせました。 でも、本当に、あの頃は辛かったけど、今はその経験を糧にずいぶんとたくましく(図太く?)なりました。 あの時死んでいたら、たくさんの友達に会うこともなかったし、イライジャとも会うこともなかったし、こうやって楽天を通じていろんな人とお話しするなんてことも出来なかったんだなって思います。 生きてて良かった!! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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