【陽の雫 63】 夜気
戦いは嫌いだった。 どう美しく言い繕ったところで、それは人殺しに違いない。 だからそれに染まらないように、訓練は受けていても自分は違うと、ニールスは常に思っていた。初陣が迫ってもそれは変わらなかった。僕は誰も殺さないと。 職人の父親は、優しいだけでは生きてゆけないと思っていたようだ。だが人殺しを職業と定める士官学校に入れさせたくもなく、普通の高校に通わせた。 ヴェールにはいくつかの特殊技術職を除いた若者に、三年間の徴兵制度がある。 それによって軍隊に入り、訓練期間を終えての初の出陣だった。 初陣もどこか甘く考えていたニールスだったが、彼らのような若者を毎回見守っていてその考えを喝破したオーディンに怒鳴りつけられた。 本当に真剣に向かって行かないと、自分だけじゃなく仲間もやられるんだ、ゲームじゃなくて本当の命のやり取りなんだと。 それでもニールスは、心のどこかで、僕は誰も殺さないと思い続けていた。 しかし。 第一次退却の際、彼の判断ミスで仲間が傷を負った。 吹き出る赤い血。えぐられた肉と悲鳴と脂汗。それを見ただけで戻しそうになり、そして気づけば人が死んでいた。 ……僕は死にたくない。 生き抜くためには、必死に戦わなくてはならなかった。 やられる前にやらなければ、自陣に帰ることすらできなかった。 そこまでして生きたいのかと問われれば……生きたい。 帰りたかった。家へ。故郷へ。 暖かい家族のもとへ。 ただ、それだけだった。 生き抜く、生き抜く、イキヌク…… 無我夢中で殺人を肯定するための呪文を繰り返し、いつか感覚が麻痺してゆく。 戦闘がひとまず収まったとき、大地に膝をついた青年は茫然自失の態に陥っていた。 目がどこを見ているのかもわからない風に煤けた空に投げられている。 自らの痛みをこらえるような瞳をしたオーディンは、暖かい手でその肩を軽く叩いた。 「……今日は終わりだ。引き上げるぞ」 蜂蜜色の髪の青年が、ゆっくりと振り返る。 その顔は虚無と絶望と哀しみに覆われ、痛々しく歪んでいた。 夕日に向かい重い装備を担いで、足をひきずるように青年が歩く。 右後ろについて歩きながら、オーディンは敵襲がないか周囲に目を配っていた。油断しているどころではない今の状態で攻撃されれば、とてもではないが助からないからだ。軍隊生活六年目の彼には、すでにそれくらいの余裕と経験があった。 いかに戦果で飾ろうとも数字を褒め称えようとも、初陣は最初の殺人の場である。 戦乱の世であるとはいえ、普通の生活をしてきた者にはどうしたって、きつい。 戦場を離脱して、野営地に荷物を降ろした瞬間、高波のように後悔がニールスを襲った。 (僕は…自分のために…人の命を……) 敵の断末魔が手のひらに残る。熱いシャワーと石鹸で洗い落したくとも野営で叶わず、唇を引き結び、彼は涙を流しながら必死に土でこすった。しかし、ただ手がさらに黒くなってゆくだけだ。 落ちない、もういくら洗っても落ちないのだと、ニールスは愕然とした。 ああ、許されないのだ。 僕はもう僕じゃないのか。 生きた屍のままこの毎日を繰り返すのか。 ……もう、どこにも戻れない。 血と土に汚れた手に、ぼたぼたと涙の丸い跡がついてゆく。そこだけ泥が流れて、うっすらと肌の色が見えていた。 それ以上自分の手を見ていられなくて、彼は毛布をかぶって無理やり横になった。 古参兵は食事を摂っていたが、とてもそんな気になれない。匂いを嗅ぐだけで戻しそうだった。 そうして息をひそめ、きつくきつく目を閉じているうちに、いつか眠っていたのだろうか。ふと目覚めると、知らぬ間に涙が流れていた。 冷えた秋の夜気に、きれいな声が遠く流れている。 (歌……誰だろう……) もう落ちないと思った血の汚れが、歌声にゆっくりと溶けてゆくようだ。 自らを縛っていた鎖がほどけていく。自分が生き抜くための戦いをした者にも、明日がくるというのだろうか。 (許して…くれるのか? 僕は、生きていても……いいのだろうか?) ニールスは毛布に包まって泣き声を押し殺した。 やわらかな歌声がまた鎖をほどいてゆく。 歌詞はほとんど聞き取れないが、あまり聞き慣れぬ古謡のようだ。 なつかしく優しい歌声は、彼らの罪を赦して待つ人々との橋を繋いでくれるように、戦士達には思われた。 帰ってもいいのだ。 血と泥濘と殺人の罪に汚れたこの身でも、故郷に家族や恋人の元に、帰ってもいいのだ。 そう言ってもらえているようだった。 血と埃に汚れた顔に、何人の兵士が涙を拭っただろう。 オーディンを含め横になった戦士達は寝たふりをしながら、ほとんどが静かに泣いていた。 それからは、何度か部隊の人間にせがまれて歌ってくれたことがある。 アルディアスはけして勇ましい軍歌を歌うことはなかったが、それでも上官に咎められたことはない。 それは、銀髪の男が本当の意味で決して逃げることがないのを、誰もが知っていたからだ。 退くべきときは速やかに退く。けれど進まねばならぬ、持ちこたえねばならぬとなれば、それがどんな戦況であってもやり抜いてしまう。 他人にかける号令ばかりが勇ましい者達とは根本的に違う、柔らかな人当たりの裏に隠された強靭さを、上官を含めて部隊の誰もが承知していた。 そうして戦場に流れた歌を知る三人は、祝宴の場で互いに顔を見合わせて微笑んだ。 「よかったよなあ……」 気持ち良さそうに歌う上司と、うっとりとそれを見つめているリフィアを眺めて、オーディンがうるんだ目をしばたたく。 隣に立つニールスも、もはや歴戦と言っていい。彼は蜂蜜色の髪を振って無言でうなずき、軽くもたれるように片手をオーディンの肩に置いた。 外はとうに日が暮れているが、店には暖かな灯りがずっと燈されているようだ。 上気した顔でわずかに窓を開ければ、すずやかな夜気とともに秋の花の香りが届いた。 あの時と同じ秋の夜。しかし流れる空気の、なんと違うことだろう。暖かな笑顔の中にいられることの、なんと幸せなことだろう。 ハープと歌が終わり、賑やかに舞い上がっていた会場がしっとりと落ちついた頃合。 セラフィトやオーディンと目配せしたニールスは、かねて打ち合わせしてあった総務課の女の子とともに立ち上がった。 手には小さな贈り物の箱。女の子のほうは大きな花束を抱えている。 「部隊の皆から准将に。花束は総務課の女の子達からです」 おめでとうの声と口笛、それに盛大な拍手とともに、プレゼントが贈呈された。 アルディアスが包みを開けると、そこには銀のロケットペンダントが室内の明かりを反射してきらめいている。 埋め込みの金線でアラベスク文様を描いた繊細な作りだ。 オーディンが贔屓にしている信用のおける職人の店で、皆で相談して買ったものだった。 「ありがとう。嬉しいよ」 皆に促され、リフィアが少し照れた様子で夫の首にそれをかけると、しゃらりとかすかに鎖が鳴った。長めの鎖は胸の中心あたりにヘッドがくるようになっていて、軍服の下につけても目立つことはない。 「ま、奥方の写真でも入れてくれ」 「そうさせてもらうよ」 恥ずかしげもなくアルディアスが答える。 そして、結婚パーティで〆に要望されるのはどこでも同じこと。 花束を抱えた花嫁に花婿が軽く唇を落として、大きな拍手とともに会はお開きになった。 ------- ◆【銀の月のものがたり】 道案内 ◆【第二部 陽の雫】 目次 一転して重い描写が入ってすみません。でも、どちらもがそこにあり片方だけでは語れない、そういうところでした。ぽちしてくださると幸せです♪→ ◆人気Blog Ranking◆webコンテンツ・ファンタジー小説部門に登録してみました♪→ ☆ゲリラ開催☆ 10/26~10/31 レインボー・エナジー・フレイム 一斉ヒーリング