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2008年02月17日
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カテゴリ:学ぶ


 学習指導要領野改定案が発表されたけれど・・・

 勉強というものは、基本的に自分でやるものだと思う。自学自習だ。国のカリキュラムで上から指示され、教え込まれ・・という日本の学校教育のあり方にだいたい納得がいかない。現場の子ども主体に、子どもに近いところに多くの決定権を確保するフィンランドのやり方と、対象的だ。

 だから、このような上意下達式の教え込みの中に、本来の人間らしい学びを求めることは出来ないと思うけれど、それでも、義務教育として、日本の圧倒的多数のこども達がそのカリキュラムの元で9年間もの間を過ごさなければならないのだから、事は深刻だ。

 今度の改正案も、豊かな人間性を育てる、しっかりとした基礎学力を育てるというそのどちらにとっても、ベクトルが逆の方に向いているとしか思えない。

 たとえば、小学校の国語教育。リテラシー(言語獲得)の最大の力となる「自由に読む習慣」に対する配慮は相変わらず、ほとんど考慮されていない。さらに、今までの「身近な話題についてのスピーチ」が、きわめて不十分だった似関わらず、それを「出来事の説明か調査の報告」と下地をきちんとしないままにいきなり抽象度の高い課題になっている。それでなくとも、自分の言葉で自分の思いを表現する事が十分にできてこなかったこども達が、その具体性をすっ飛ばしていきなり抽象度の高い課題を要求される・・・こども達のとまどいが目に浮かぶようだ。漢字についても、トレーニング主義の強化、とにかく数書かせて覚え込ませるというやり方は、覚えるという人間の脳のメカニズムにとってもマイナスに働くし、こども達の学ぶ意欲も大幅に衰えさせてしまう。

 算数、数学の場合 現段階でも数の機械的な操作に習熟させるトレーニング主義の元で、数の概念を理解すると言うことが、なおざりにされ、わからないのに出来てしまうこども達、わからないままに上級に持ち越されてしまうこども達が多く、高校や大学に行っても分数の基本的な意味側から無い学生が少なからず鋳る・・という現実を文科省の役人たちはどうみているのだろうか。「算数の楽しさに気づき・・」と言うけれど、わかってこそ楽しくなるのであって、わからないのに楽しむことを強制されても、ちっとも楽しくない!!そもそも、楽しむ事は、楽しいことに巡り会って、楽しいという気持ちが中から自然に湧いてくるものなのだと思う。楽しい教材があってわかる授業があれば、楽し身を見つけろ!!なんて言われなくても、こども達は黙っていても喜び・楽しむ。
それはちょうど、「国に誇りを持ち、愛する気持ちを持て!!」という論調と似ている。誇るにたる愛すべき国になることが、先決で、そうすれば「喜べ、誇りに思え、愛せ!」なんて、誰にも命令されなくても、自然とそういう感情は湧いてくるのではないだろうか。

 そもそも、何に対する愛であれ、愛ほど強制になじまないものは無いと思うのだけれど。

 分数すらきちんとわかっていないのに、わかるための努力無しに、同じやり方のままで一時間増やしたところで 意味がないばかりか、苦痛がますだけで、こども達の算数嫌いはますます増えてしまうのでは・・。円周率を3にする前に、少数のかけ算に困難を感じるこども達の状況を丁寧に解決するべきだったのに、
子どもが出来なければ、小数点以下を切り落とす、低学力を指摘されたらまたぞろなんの解決策も用意せずに復活させる・・これでは、子どもも混乱するばかりだろうと思う。

 同様なことが、中学の数学にも見られる。二次方程式の解の公式を始め、高校の範囲が、大幅に中学の課程に引きずり下ろされてきた。
解の公式そのものも、どうやってその公式が出てきたのか自分で導き出すと言うことを丁寧に繰り返せば、そのプロセスはとても楽しいものだし、覚えることも楽に出来るのだけれど、箇々でまたぞろ、問答無用に覚え込め!!というやり方をされたら、こども達の数学アレルギーは極に達する。

 小学校の週一時間の英語も、ほとんど意味を感じられない。外国語習得の面で考えても、片言の挨拶を覚える位のことは、きちんとした勉強を始めればすぐに身につくし、わざわ座、それでなくとも子どもも教員も忙しくてパンク状態の時間割の中に入れても、弊害の方が多い。最も、これで英語の力がつくわけではないというのは文部相自身が認めているという野だから、あきれてしまう。げんじょうでは、意味のないことに現場の担任の負担を増加させるだけのことだろうと思う。コミュニケーションということを盛んに言うけれども、豊かなコミュニケーションは、まず第一に母国語で事培わなくてはいけない。母国語でコミュニケーション能力のない人が、英語でコミュニケーションを出来るようになるはずがない。

 等々、いろいろ考えると、学校現場や、こども達へ似負担がさらに倍加されるようで、心が痛む。

 子どもの人間らしい学びを考えたとき、あらためて私は、子どもの権利条約を読み返してみた。「良心の主体」であるこども達が、それにふさわしい人間的力量を身につけることの出来る学びが保証されなくてはいけない。
学びの主体は、あくまでもこども達にあるのだから。

 このような、細かなカリキュラムの縛りの中で、教室の中でどのような可能性を切り開いて行けるのか。さらに、細切れの知識の注入でなく、こころの知性、をどのように育てて行けるのかも、すべての大人達の課題なのだと思う。

 こんな日本の現状を振り返るとき、参考になるのが、単なる高学力の国というだけではなく「フィンランドという生き方」だ。ちょうど同名の本があったのでご参考までに紹介します。


フィンランドという生き方






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最終更新日  2008年02月17日 11時23分55秒
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