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カテゴリ:学ぶ
勉強というものは、基本的に自分でやるものだと思う。自学自習だ。国のカリキュラムで上から指示され、教え込まれ・・という日本の学校教育のあり方にだいたい納得がいかない。現場の子ども主体に、子どもに近いところに多くの決定権を確保するフィンランドのやり方と、対象的だ。 算数、数学の場合 現段階でも数の機械的な操作に習熟させるトレーニング主義の元で、数の概念を理解すると言うことが、なおざりにされ、わからないのに出来てしまうこども達、わからないままに上級に持ち越されてしまうこども達が多く、高校や大学に行っても分数の基本的な意味側から無い学生が少なからず鋳る・・という現実を文科省の役人たちはどうみているのだろうか。「算数の楽しさに気づき・・」と言うけれど、わかってこそ楽しくなるのであって、わからないのに楽しむことを強制されても、ちっとも楽しくない!!そもそも、楽しむ事は、楽しいことに巡り会って、楽しいという気持ちが中から自然に湧いてくるものなのだと思う。楽しい教材があってわかる授業があれば、楽し身を見つけろ!!なんて言われなくても、こども達は黙っていても喜び・楽しむ。 そもそも、何に対する愛であれ、愛ほど強制になじまないものは無いと思うのだけれど。 分数すらきちんとわかっていないのに、わかるための努力無しに、同じやり方のままで一時間増やしたところで 意味がないばかりか、苦痛がますだけで、こども達の算数嫌いはますます増えてしまうのでは・・。円周率を3にする前に、少数のかけ算に困難を感じるこども達の状況を丁寧に解決するべきだったのに、 小学校の週一時間の英語も、ほとんど意味を感じられない。外国語習得の面で考えても、片言の挨拶を覚える位のことは、きちんとした勉強を始めればすぐに身につくし、わざわ座、それでなくとも子どもも教員も忙しくてパンク状態の時間割の中に入れても、弊害の方が多い。最も、これで英語の力がつくわけではないというのは文部相自身が認めているという野だから、あきれてしまう。げんじょうでは、意味のないことに現場の担任の負担を増加させるだけのことだろうと思う。コミュニケーションということを盛んに言うけれども、豊かなコミュニケーションは、まず第一に母国語で事培わなくてはいけない。母国語でコミュニケーション能力のない人が、英語でコミュニケーションを出来るようになるはずがない。 等々、いろいろ考えると、学校現場や、こども達へ似負担がさらに倍加されるようで、心が痛む。 子どもの人間らしい学びを考えたとき、あらためて私は、子どもの権利条約を読み返してみた。「良心の主体」であるこども達が、それにふさわしい人間的力量を身につけることの出来る学びが保証されなくてはいけない。 こんな日本の現状を振り返るとき、参考になるのが、単なる高学力の国というだけではなく「フィンランドという生き方」だ。ちょうど同名の本があったのでご参考までに紹介します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年02月17日 11時23分55秒
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