人間の本音をさぐる
固いお話しが続き退屈された方もおられるでしょう。今回は、人間の建前ではなく本音の部分を掘り下げてみたいと考えました。わたし自身が、生来が怠け者で、ものぐさで不器用で、世間知らずで……このように数え上げてみると随分といい加減な人間の代表のようだと我ながら呆れてしまいますがここからが、私・草加の爺の本領発揮と参ります。余所行きでない、有りの儘の姿は誰も彼も、欠点の多い不完全なものなのではないでしょうか。何か論を立てるときには取り敢えず、自分のことは棚に挙げてあたかも理想的な完全人間ででもあるかのごとく物申す、のがまあ、世間一般の論者の流儀というものでしょう。わたしも、その例に漏れず「偉そうな顔をして」、このような記事を書いたりしているわけであります。ですから、書いていることの全部、と言ってよいほど自己反省の弁であり「鋭い批判」の矛先は自分自身に向けられているようなものです。楽しく、朗らかに、いつでも希望に目を輝かせ愉快に、気ままに人生を謳歌したい。そう願いつつ、現実の厳しさ、不条理さ複雑にして怪奇な人間心理、病的な社会現象……、など等に災いされ、不本意ながら思うようには、生きられない。だから不貞腐れたり、仏頂面をしたり、八つ当たりはたまた、ストライキやハンガー・ストを決め込んだり。最後は、行き場を失って自殺を妄想。まあざっと、こんな具合の体たらく。しかし、ふと気を取り直してみると見上げる空のなんと美しく、爽やかなこと!みんな偏狭な自己の殻に閉じこもっての偏頗な見解から発したもの、と悟る。思うように自由気ままに生きる。一見すると一番楽そうで易しそうに感じられる生き方が、実は一番難しい生き方なのですネ。人生はそうした矛盾を多く孕んだまことにパラドキシカルなものなのでした。人間の欲望をとことん追求する快楽主義便利さを追い求める便利第一主義欲望につまずかない警戒心が産んだ禁欲主義男女の性愛に理想をみる恋愛至上主義その他、どのような主義も主張も一長一短で、完全無欠ではありえないのです、残念な事に。悪の楽しみ、嫌がらせ・いびり・虐めの楽しみ。他人の不幸を見たり、知ったりしてほっとした経験をもとに、積極的に他人の不幸を望む。悪への暗い衝動は、実現を拒否された積極的願望のいわば裏返しなのでしょうか。それとも、綺麗ごとの建前主義全盛時代に対する世を挙げての反逆現象なのでしょうか?次回もこのテーマを探りますので宜しくお願いします。