相手に尽くすという事
先ずは今回の大地震で被害に遭われた皆さんにお見舞いの言葉を申し述べたいと思います。私自身も一時は死を覚悟するほどの不安を体験しました。67年以上の命を頂戴しているので、寿命に関しては不足はないと最近では考えていたのですがいざ「これまでか?」というような非常事態に直面すると、我ながら情け無い事に「死にたくない」「神様助けて下さい!」と思わず知らず心の中で叫んでおりました。なんとも不甲斐なく忸怩たる思いであります。日頃は偉そうなことを言ったり思ったりしていても凡人の悲しさ「悟り」などからは遥かに遠い境地にあるのだとしみじみと感じさせられた震災体験ではありました。しかしながらと、気を取り直してこの文章を綴り始めた次第であります。またぞろ偉そうな事を書き連ねることになりますが、以上のような体たらくを経験し、自分でも情けないと思うことを吐露している「生煮え」の人間の「説教」とお心得の上でよろしく御判読のほどをお願いしておきます。さて前置きはこれくらいにしておきましょう。今回の震災報道などで、東北人の我慢強さや自分以外の何物かに対しての「献身」振りが話題として取り上げられています。我慢や辛抱は美徳とも短所とも、長短の両面から批判され、また賞賛されたりもします。物事にはプラスとマイナスの両面があると言い切ってしまえばもうそれ切りのこと。議論の余地はなくなってしまいますが「我慢」や「献身」は我が儘や一方的な自己主張より易しいこと、実践しやすい事柄ではありませんね。苦しさや痛さを痛切に体験した者にして始めて取りうる態度・行動なのではないでしょうか。他者に対する優しさが我慢や献身として表現されるのではないでしょうか?所詮は自分一人きりではこの憂き世を生きて行けないことを身にしみて悟ったひとにしか真の優しさが表現できないとすれば、我慢や献身は大人の、あるいは苦労人の優しさという事に成るかも知れない。自己主張や要求のみをこととして生きる「身勝手」な生き方には無い「複雑」な心情が隠されている。そう解釈するのが妥当というものかもしれない。取り越し苦労ばかりを重ねてきた「貧乏人」のわたし・草加の爺には少なくともそんな風に感じられる。若者らしいストレートな自己主張や内面から自然に湧いてくる要求の表明にも好感を感じるのですが、他者を思いやり他者をいたわる優しさには何物にも勝る貴さを感じないわけにはいきません。如何でしょう?今回も若者を大勢ふくむボランティアの活躍が見られるようです。まことに心強い限りですね。みんなで出来る範囲の協力を惜しまずに、暮らしよい世の中にしてゆこうではありませんか、みなさん。