善と悪、そして自力と他力
なにか難しそうなタイトルになりましたが例によって私・草加の爺の書く文章ですからそんなに吃驚するほど高級でも、難解でもありません。どうぞ気楽に読み流していただければ幸いです。「歎異抄」で有名になった悪人正機説というのがありますね。親鸞の師の法然にも似たような表現があり、親鸞の独創ではないようですが、善人ではなく悪人こそが菩薩の救いの対象だとするこの主張は、一見して人の目を驚かす逆説のようにきこえます。しかし考えてみれば、悪人とはなに?善人とはだれ?と言われてみれば周りを見回して悪人とも善人ともつかない人々で溢れかえっている様に一驚。そうです、わたしたちは悪人と善人を混ぜ合わせたような存在。純粋な善人も、逆に根っからの悪人も皆無と思われます。それがわれわれ平凡人のあり方というものでしょう。また他力本願という言葉・表現がありますが、自力で、自分の力だけで極楽往生を遂げることは至難の業と素人の立場からも理解できますね。煩悩具足の凡夫が有難くもこの世に生をうけて、曲がりなりにも人並みに世を渡ってゆく。それだけでも殆ど奇蹟のような感じさえするではありませんか。それなのに誰彼の区別無く「極楽・天国」に救い取られうる。こんなに嬉しくまた有難い話はありませんが、これも偏に「如来・菩薩・仏・絶対者・神」といった「他力」のお陰。他者の命を戴きながら生活し、社会や周囲の全てのものに「迷惑」をかけなければ一日たりとも生きては行けない身。どんなバカ者でも自力だけで何か意味のあることが成し遂げられるなどとは決して思わないでしょう、金輪際!いま私は「有難くも」この世に生を享けと書きましたが、八苦の娑婆とも申しまして苦痛と悲しみでみちみちた今世を「嫌だ」、「嫌いだ」、「剣呑だ」と眉を顰めて忌み嫌う人々が大勢いるわけですから、そうしたお方たちには直ぐには通じにくい表現かも知れません。けれど、冷静になって我が身を振り返りさえすれば、すとんと胸に落ちる道理だと合点がいくでしょうに……。しかし再度考えてみるに、この世には様々な理由でこの明々白々な道理が素直には受け取れない境遇のひとが、これまた沢山いらっしゃる事実を否定し去る事はできませんね。またぞろいつもの口癖がでます。みんな大人たちがわるいのだ、と。楽しさの種である「苦」を大事に育てる工夫を教える代わりに、若芽や双葉に育てばまだしも「種」に水や養分という大切な物を、自分勝手な「無知蒙昧さ」から、奪い取って与えようとしない身勝手きわまりない横暴ぶり。まさに正視にたえないとはこのこと。こんな具合に表現しても当人は自分のこととは夢考えたりしない。まことに始末に困ってしまう人種が現代にはやたらとはびこっている。こんな駄文でも何かの役に立てたらと菲才浅学を省みず試みているのは未来ある世界の宝・子供たちを本当の意味で大切に、また真っ正直に育てる義務のある大人の端くれという自覚のなせる業。一種の使命感からなのですから偉そうにという不快感を抱かれたお方がもしいらっしゃったならば、どうぞご勘弁ねがいます。草加の爺、謹白。