自分とは誰、どの様に考えますか?
受験シーズン酣(たけなわ)で生徒達の事を考えると心配事が絶えませんが、彼らには彼らなりの「仕事」があり、私・草加の爺にはまた自ずから別の務めがありますので、この様な駄文を弄している次第です。仏教の方で、自分自身を見詰る為に座禅という一種の行(ぎょう)を行いますね。あれは色々な意味合いが有るようですが一応「雑念を払って大宇宙と一体化する」のが主たる目的とか聞いております。座禅の作法に従って道場で瞑想に耽るのですが何処からともなく様々な雑念が群がり集まってくる。最初は殆どこの雑念の洪水に飲み込まれて、大半の時間を費やす事に終始するのが初心の修行者の座禅の現実で有るそうですよ。そして、雲霞のように群がり寄って来る雑念の中心にあってその雑念に翻弄されている中に、次第に無念夢想の境地がこれも何処からともなく忽ちにして飛来する。いや、飛来などという俗な表現など全く不釣合いな「玄妙なる」境地がいつの間にか現前。と、これでも中々的を、正鵠を射てはいないようですが、まあ言葉などが通用しない世界を表現するのは本当に至難の業でありますね。つまり、己と大宇宙とが過不足なく一体となっている、不思議な時間であり、境地なのでありましょう。これを要するに「悟り」と呼んでも別に差し支えはない。大袈裟かも知れませんが「涅槃」と呼んでも良い。素人の与太話ですからアカデミックな立場からの厳正な批判には耐え得ないでしょうが、嘘も方便という言い方もあるのですから大雑把な物言いもこの際許されて然るべきかと愚考致し、思い切って大胆に論を進めますよ。要するに、頭脳とか、大脳皮質とか前頭葉とか、世俗では大変に大切と崇められている人体の一部分の齎す意識作用など、仏教修行の場では「雑念・妄想」などと蔑まれ、余計物扱いをされているのですね。そして意識などという「小我」を捨て去り、直ちに宇宙の「大我」と直結する、純粋無垢に融合し一体と化す。そういった境地が理想とされ、尊重される。つまり自然状態の再現でありますね。何のことはない、文明とか文化とか、進歩とか、発展とか、その他諸々の人間的諸価値の全否定。驚くべき結論でありますよ。如何ですか?この辺の、曰く言い難い微妙な所を篤と、あなた碁自身の「魂」で、頭や心だけでなく全身全霊を投入して、じっくりとお考えくださいませ。本質的な事柄は常に難解至極なもの。昔からその様に相場がきまっているのですから。その上で、ご質問なり、御相談がありましたら遠慮なく、お声を掛けてきてください。懇切丁寧にお付き合いいたします。理屈だけではなく、行動や実践の場で生かし得る生きたアドバイスを、或いは真心の籠ったサポートを提供いたしますね、無論無料です、ご安心下さい、世の中に蔓延っている詐欺などとは別次元のお話しですのでどうか宜しくお願い致します。