井の中の蛙と神の関係。
お前は、一体神の存在を信じているのか?と言うご質問を頂きました。私・草加の爺はそれに対してはい,私なりに信じています、とお答えしました。それは一体全体どのような神なのだ、それを分かり易く説明してもらえないだろうかという要請が続きました。それに、一応お答えしようと言うのが今回のテーマです。私を「井の中の蛙」と形容しましょうか。神は大海のような存在ですし、したがって当然蛙の理解の埒外にあります。しかしながら、蛙にも「信ずる」ことは可能です。しかし、井戸の中に生活している蛙には大海を理解する事などは不可能ですね。私達は神を信ずる事はできても、理解する事は出来ません。以上に尽きているのですがもう少し補足しておきましょう。仏教の仏、キリスト教の神、そして高天原に今も住まわれている八百万の神々達と私との関係を次のように理解しています。つまり、究極の神である「絶対」が存在していて、そこへ至る幾つものチャンネルがある。様々な神社仏閣や、道野辺のお地蔵様、更には「鰯の頭も深甚から」と言われる鰯の頭も、みんな究極の絶対神に至るありがたい通路であるのです。ただし、私たちに絶対を理解する事などはそれこそ絶対にできないのですから、自分勝手な解釈や願いなどは残念ながら先方には届きません。私に出来る事といったら唯只管に祈るのみ。それも心を空しくして絶対の「御心」に叶うよう念ずる。正しい祈りは必ず絶対神にまで届き、その願いは必ず実現する。自分勝手で、恣意的な「祈り」の紛い物はそうはならないでしょうが。如何ですか、少しはお解かりいただけたでしょうか?序でながら現代人は何故に正しい信仰心を失くしてしまったのでしょうか?それは銘々が自分の胸に手を当ててよく考えてみて下さい。生命力の減退現象かも知れませんし、人によっては本来の健全な信仰心に復帰するチャンスになるかも知れませんので。兎に角真摯に、謙虚に、己を只管空しくして「本当に信ずるに値する対象を心から信ずる」。それ以外に私たちの生きる道はありません。毎日でも、その辺のところを自問自答し続けてみて下さい。そうすれば、突然の如くに進むべき道が目の前に開けている様がありありと見えてくる筈。信ずる者は救われるとは、この事を言っているのであって、勝手な、そして傲慢な解釈など、それこそ井の中の蛙の戯言に終わるでしょう。