「生きている、のか、生かされているのか……。
ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは思わざりしを ―、在原業平(古今和歌集)の辞世の句と言われていますが、われわれ凡人には決して詠めない、素晴らしい歌ですね。ラテン語に、memento mori (メメント モリ)という警句があって、「死を記憶せよ」「死を忘れるな」などと普通訳されますが人々に自分が死すべきものであることを思い起こさせる為に使われた。殆どの人が、健康で日常生活に何の支障も無く暮らしている時には忘却している事実、つまり人間とはやがて確実に死を迎える儚い存在だ、ということを忘れたようにして生きていますね。しかし知識として知っているのと、たとえば死を間近に感じた時の業平の切実な思いとでは、途轍もなく遠い距離が、隔たりがある、とてもとても。そして私達は愚かにも、自分自身の力で、才覚で、技量でもって天晴れ見事に生きていると、主体的に、自覚を持って、人よりも数倍も素晴らしい生き方をしている。そんな風な勘違いをして暮らしていながら、自分を有難くも「生かして下さる」目には見えないけれど確実に守護して下さっている「大きな存在」を無視している。平気でいる。それで一体良い物だろうか?考えるまでも無く、答えはノー。しかし、しかし、そんな寝言の様な「迷信」を信じるくらいならあの殺人鬼の「教祖さま」を信じたほうがまだ増しだ、とでも思っているような浅ましい、本当に、心の底から、低劣な人種ばかりが蔓延る風潮。が、嘆いたり、慨嘆していたりする悠長な暇はありませんよ。たとえば地球が滅亡を迎えないように念じて、大人たちだけが自業自得な天罰を受けようとも断じて、罪もない子どもや若者達に、マイナスの遺産を垂れ流しすることは、金輪際許されない事。断じて許されない!断じて、です。何故なら私達は、空間的な広がり、つまり同時代人とだけ生きているわけではなく時間的な広がり、つまり歴史的な連帯を強く保持して、生き、また生かされている存在だから。今生きている人間の都合だけで、過去の人々や、或いは未来の人々とも強い絆で結ばれている事を忘れては絶対にいけないのですよ。過去や未来を、現在の狭い視点で否定したり無視する事は、同胞に対する裏切りであり、今を生きている者たちの傲慢としか言い様が無い。過去・現在・未来を全部含めた全体としての人類のあり方に思いを馳せ、熟思黙考して、果敢に行動する。そうゆう生き方を一人ひとりが目指さなければならない。狭い了見での判断は絶対に避けなければならない。そういう意味では、私たちに「絶対の自由」などは端から与えられてはいない。天は、たとえば「生めよ増やせよ、地に満てよ」とだけ命じていて、後の宰領は「宜しく、その都度、ベストを尽くす」べく私たちの手に、善意によって委ねた、全面的に、なのですよ。(大丈夫ですか?ご同輩!)しっかり、その天の善意を受け止めて、責任ある行動を取ろうではありませんか。