平凡は非凡、醜いは美しい!?
大人たちに今一番言いたいこと、それは子供たちや若者に大人世代が一体何を大切な事として、教えているのか。という問題です。些細なこと、どうでもよい事、独りよがりな事。そんな自分勝手な、狭い了見での、一方的で押し付けがましいことばかりで本当に彼にとって必要で、役に立つ事は何一つ教えていないのではないか。そういう不満であり、憤りであるわけです。と言いますのも、経済至上主義の極みにいて、そのものがどれだけの金銭価値が有るのか、という極端な価値判断しかもたない現代は、人間の価値さえもその人間がどれだけの金銭的価値を生み出し得るのかという、一点にだけ注目が行ってその他の価値判断が、殆ど顧みられる事がない。そういう、現代社会が宿命的に持つようになった偏頗な特性が異常に肥大しきってしまっている事に対する反省が皆無で、それで良いのだ。とする余りにも嘆かわしいあり方。これに私・草加の爺は命懸けで抗議したい。結果は、焼け石に水に終わったとしても、百万人と言えど我行かん、の心意気を堅持して。平凡だと言う事は、本質的には非凡なのです。同様に、醜いと言う在り方はそのままで、無条件で美しいいのですよ。シェークスピアが描く所の「マクベス」を引き合いに出すまでも泣く、この世は「反語」的現象で満ち満ちている。何も、クレオパトラだけが絶世の美女なのではない。自分を「馬鹿」だの「ブス」だのと蔑んでいる、あなた自身が、心の持ち方次第で、世界一の美女に「生まれ変わる」事が可能なのだ。その素質を他ならぬ「絶対者」から付与されているのだから。折り紙つき、正真正銘の保証つきなのだ。ただ、あなた自身が「その事実」を認めないだけのことで。オンリーワン、ユニーク、個性的、天性の、それら素晴らしい形容詞の数々は平凡人である、あなた自身に神から無条件で天賦されている。にも拘らず罰当たりにも、何か世の流行に頭から強烈な影響を蒙ってしまっている所為で「人真似」ばかりするものだから、自分には相応しくない「猿真似」をする物だから天性の美質が素直に成長しないで、碌でもない方向に捻じ曲がってしまっている。そんな悲しい人ばかりが巷には溢れかえっている時代ですね、いやまあ。で、私の主張ですが、大人たちは、親は、老人達は、口を揃えて若い世代に教えるべきなのだ。あなた自身を、大切に、自信を持って毎日を生きなさい。胸を張って生きなさい。それがこの世に生を与えられた人間の本質的な権利なのだから、と。自分の進むべき道を、自分自身の力を信じて、正々堂々と進んでいけばよい、と。大人の役割や、教育の目的は極論すればそれ以外には無い、何も無い。如何ですか?