「バカを磨け」― 幸せという義務・その一回目
第一部 幸せについて 1 タイトルの説明 自分はバカだし、何の取柄も無いからダメだ、と言う人がいたら私はその人に向ってこう言いたい。あなたのその「バカさこそがあなたの貴重な資本だし、資源だ。その馬鹿さを磨いて、幸せにつなげよう!」と。あいつは馬鹿は馬鹿でも、ただの馬鹿じゃないよ。そう他人から言われるようになったら、それはもう立派な生き方ですから。もう一つ、「幸せ」が義務だなんておかしい。「幸せ」という権利なら、文化国家の日本のことだから憲法か何かで保障されていても、少しも不思議ではない。そんな風にお考えの向きも、或いは居られるかも知れません。 「しあわせ」とは「為合はせ」「仕合はせ」と書き、上手く合うようにすること、めぐり合わせる事。運。善悪いずれについても言い、特に幸運だけを意味するように後に変化した言葉です。 ところで、一体何と「上手く合う」ようにすることと、大昔の人々は考えたのでしょうか。ここからは私流の解釈になりますが、人知を超えた大きな存在、神とか、天とか漠然と呼んでいた存在者の意向、つまり、天の配剤などという表現が端的に表わしているものとです。それでは、「天の配剤」とは一体全体どういう意味でしょうか。辞書によれば「とても・偶然(人間業)とは思われないほど、世の中や運命がうまく出来ていること」ですね。この人知を遥かに超えた天のはからいに、上手く合致するようにと、当時のひとびとは考えた。「天のはからい」と合った生き方が、幸運な生き方で、「天の計らい」とミスマッチしたそれが不運と呼ばれたのですよ。この場合、幸・不幸の分かれ目は、人間の側の生き方にあって、天の方にはないことに注目して下さい。つまり、昔の人々の考えの中では、天の意向の中に広大無辺の、絶対的な善意のみを見て、微塵も悪意、或いは、邪まな計らいというものを想定していないこと。もう、お解かりになって戴けたでしょうか。私たちが幸せに生きるということは、天のはからいに添う様に生きるということです。それはつまり、この世に生をうけた者が等しく実践しなければならない唯一の義務の名にあたいする、従って、義務中の義務なのですね。