「バカを磨け」― 幸せという義務・その十八回目
9 いびつに歪められている・子供 現代という時代について考える時、どうしても「弱者」の代表的存在としての子供たち、との関連を抜きにには、語れないような気がします。 いつの時代でも、相対的な弱者、いわゆる社会的に見た場合の弱者、が存在するでしょうが、今ほどその問題が深刻化し、慢性化している時代が考えにくいほどに、事態は危機的です。誰もそれに気付いていないからではなく、誰も彼もが、二言目には子供の為に、あるいは子供たちの未来・将来の為にと唱えながら、その実は、それとは反対の事を子供たちに押し付けている。それが問題だ、と言いたいのです。何か問題がある場合に、その問題の本質が正しく把握されている時には、実はもうそれは、実際上解決されたも同然なのです。危険なのは、人々が口々に「問題だ、問題だ」と叫んでいるのに、事態の在り様を間違って掴まえているようなケースですよ。 親達は、そして大人たちは、子供たちに何を本気で望んでいるのでしょうか。自分達の子供にどうなってもらったら満足するのでしょう? 誰も彼もが、一流の大学を出て、大企業に就職して、ハンサムや美人と結婚して、老後は完全看護の施設で安楽に過ごす。めでたしメデタシ。そんな「お伽ばなし」を本気で信じているのでしょうか。もし本気で信じて、それに向って邁進するつもりなら、何も申し上げることはありません。どうぞご勝手に、でことはおしまいです。 それとも、それは理想だけれど、現実にはどうも上手く行きそうでないから、それが問題なのだとでも言いたいのでしょうか―。冗談はこれくらいにしておきますね。本当は、どうしたら良いのか分からないのではありませんか。分からないなら、分からないと正直に答えれば良いのです。そして、相談すれば。一体誰に?識者に、いやいや、当の子供たちにですよ。悪ふざけを言っているのではありません。 子供たちは、実は何もかも知っているのですね。自分達が自分の人生をどう生きたいのかを、ちゃんと知っているのです。ただし、大人のように知っているわけではありませんが。時間がかかるのです。子供たちが大人に、親や教師や、そのほかの物識りたちに、自分が本当はこう生きたいと、告げるためには。ですから、どうか時間を彼らに与えてやっていただきたい。性急に、彼らに、子供たちに押し付けないで頂きたいのです。自分達大人が抱いている「不安」を。そうです、大人たちは大きな不安をかかえているのですね。不安で、不安で、ただただ不安なのです。だから弱者である子供に、精一杯の強がりと病的な苛立ちを押し付けて自分の思うようには決して運ばない現実に、怯えている。でも、不安だなんて、とても言えない。だから窮地に立たされた弱虫がそうするように、決然と、まるで勇気ある者の如く、行動するのです。そして、益々事態を悪化させているのです。