理解という言葉をめぐって・その三
ごく最近になって私自身が気づいた、否、気づかされたことなのですが、私たちは皆、大きな勘違いをしている、否大きな間違いを犯してはいないだろうか、という疑問です。周りを見回して、「有象無象」と俗に呼んでいる無自覚で、自分勝手で、第一に世間の事に殆ど関心の無い輩たち。もしかしたら、こういう人たちはまだしも「人畜無害」なので、まだ益しなほうの部類なので積極的に人様や世間に、つまり社会に対して牙を剥き、有害な害毒を流している「悪党」たちの多くに囲まれて、長年生活をしていると「朱に交われば赤くなる」の譬えの如くに、多くの者たちが唯の「ぼんくら」に堕してしまい、本来の自己に到達できず、従って生前から授かっていた尊い使命を悟る境涯に至らず、空しく人生を卒業してしまう。それはまた、それで誰からもお咎めを受けたりしないで済んでしまうのですが、こうした実に勿体無い循環が常体化しているのが、私たちであり、私たちの周囲にいる平凡人、つまり一般人の異名なのではないでしょうか?とまあ、はっと何者かによって悟らされた。否、優しく、実に穏やかに「どやされた」のでありますよ。 普通に、自分の人生だから、どの様に生きても構わない。そんな風に言って、他人も自分も何憚らずに、平気の平左でいる。誰からも叱責を受けたりもしない。法律で罰せられる事も無い。つまり、それで無事に通ってしまう。ところが、これが実は恐ろしいことで、広大無辺な御心をお持ちの如来様や菩薩様は見過ごしにしてくださっていらっしゃるだけの事。人間として、「万物の霊長」などと尊大な御託を並べている人類の片割れとして、それで一体良いものなのだろうか?私の心のどこかから声が響いてきて「それではいけないよ、もう少し、もう一寸だけ、努力してみないか」と語りかけているのでした、本当の話。天は、御仏は、あらゆる機会とチャンスとを捕らえて、私たちに叱咤激励を、有難いメッセージを弛まずに送り続けているというのに、私たちは惰性と無気力に足を取られて、無為のままで惰眠を貪り続けようとする。仕方が無い!罪がないのだ!悪気もないのだ、そんな「悪魔」の囁きに、悪意の塊の様な堕天使の誘惑に誑(たぶらか)されるだけで、一体善いのだろうか? もう一度、いや、機会があれば何度でも、ご自身の胸に手を当てて篤とお考えあれ、と願わずにはいられない私・草加の爺なのでありますよ。「偉そうに」などとおっしゃらずに、どうか意のある所をお汲み取り頂きたい。どうぞ、お願いであります。