「理解」という言葉をめぐって・その六
大分以前に担当した、小学生の男の子が「家のおかあちゃんは冷たいですよ。まるで雪のように、とても冷たいですよ、先生」と私に対して、怖るべき発言をした事があります。とても理知的で子供思いの優しい母親―、私はその様にその生徒のお母さんを理解して受け止めていましたから、突然のその子の発言に、戸惑い、一体どういうことなのだろうかと、暫く思考停止状態で、任務である「学習の指導」に専念していたのでした。やがて、信じられないような真相が男の子の口から明らかにされていき、その子と母親とのとても厳しく、また救いの無いような現実が現れてきて、私はしばし茫然とさせられたのであります。プライバシィーの問題がありますので、これ以上は具体的にお話しするわけには行かないのでお許しいただきたいのですが、子供は、大人が考える程、子供ではない。何もかも、大人以上に「知っている」のであります。知っていて、大人とは全く違った、現実への対応をしているのですね。それが、結果として教育している筈の大人を、逆に「教育する」結果を齎したりしている。本当の本当の話でありますよ。子供を、「神から授かる」と言う事の本当の意味はそういうところに隠れていたりするので、夢、仇や疎かに子供と接してはそれこそ天罰を受けることになりかねません。白金も黄金も玉も何せんに、勝れる宝、子にしかめやも、と歌った万葉歌人は誠に神の御心を熟知した、賢く真っ直ぐな心ねを備えた、真の益荒男(ますらお)であった証拠ですが、現代の文明を誇る私達・大人はどれ程か賢く、また進歩を遂げる事が出来ているのでありましょう。 子供をまるで自分の専有物の如く考え扱っている、貴方、貴女。天に唾するに等しい自分の所業に、猛省をして、神に、天に、そして宝である子供さんに対して感謝をするべきであります。親から本当に「宝物」として感謝されている子供達が大勢いれば、いじめなどと言う残酷な行為は、減少の一途を辿るに相違ないのですから。世の大人たちよ、総懺悔せよ、子供の無邪気な寝顔を眺めて涙を流した方が良いのです、実際。子供は大人などの手に負える代物では断じてないのであります。感謝し、正しく、子供の教えに、神の諭しに素直に従おうではありませんか、今からでも、明日からでも、是非とも。