「理解」という言葉をめぐって・その十
最近、或る青年と話をしていて、「先生は非常に面白い、ユニークな方ですね!」と言われ、感激したり同時に、少しくガッカリしたりで、複雑な心境になりました。 私が授業の締めくくりとして、「人間の死ということについて君は、どんな風に考えますか?」と問いかけたところ、相手はきょとんとした表情でしばし無言でしたので、「私は、若い頃、十代の終り頃には、自分が死ぬのだ、この世から存在がなくなるのだと考えると、何か自分の身体全体が底なしの暗い谷底に吸い込まれるような恐怖感に捕らえられて、気が遠くなるほど恐ろしかった。七十を過ぎた今は、逆に、=本来あるべき場所に戻る=のだから、恐ろしくも怖くも思わない。生きて、この世に在ることのほうが、長い宇宙の歴史から見ても瞬間の事であり、特殊な在り方なのだからネ」などと言った時のこと。 かの青年は、「私の周りの老人は、先生とは真逆の事を言います。若い頃は血気に逸って、いつ死ンだって構わないと、死ぬ事を恐ろしいとは思わなかったが、子や孫が出来、財産も出来た今は死ぬのが怖い」などと言っていますよ、と言葉を継いだのでありますが。 「成程!」と私は頷きました。そのほうが自然かも知れない。わたしのは聞きようによっては屁理屈と取れるかもしれないナ、とも反省しました。 さて、理解という事ですが、数学で「何々と仮定すれば……」という条件が付きますが、人間には肉体・身体だけでなく、心・精神・霊・魂などと普通呼ばれる眼には見えない「不可思議な現象」が存在します。 ああしたい、こうはしたくない、などの意志。好き、嫌いの感情。善悪を識別する理性や分別。無意識にそうしてしまう性格や心理癖などの「複雑にして怪奇な心理現象」を伴っていますね。一筋縄ではとてもいかない。厄介この上もない代物。これはDNA(遺伝子)だけでは説明が付かない。学者は、後天的な環境が違うから、経験の質や種類が違うからなどと説明しますがとても納得などできませんね。 再び、数学を例に挙げてみましょう。一方を真と仮定すれば、他方は偽と規定される。しかし、人間の心理はその様に単純化するわけには、どの様な場合でもいきませんよ。好きだけど、嫌い―が成立する。つまり、言葉の上では一見矛盾している事柄が、心理上は真実である事の方がむしろ多い。正義ではあるが、悪である、ことは現実社会では常識でしょう。道徳的には好ましい。だけど、嫌いだ。教育上は好ましいことではないが、心理的には賛成だしむしろ歓迎だ。などという事例は枚挙に暇がない程に多い。いじめ。やってはいけないこと、と言われれば言われるほど、陰で、こっそり隠れてやる「いじめ行為」は快感!―― これ、残念ながら人間性の一面の「真実」。 同じように、戦争行為。人が人を殺すこと。人間は潜在的に、この野蛮な残虐行為が「身体がゾクゾクと震える程に大好き」な動物なのです、残念ながら……。生きてこの世に在る事は、綺麗ごとだけでは済まされない。建前だけで割り切ることが許されない。業とか、前世の悪縁とか、様々に表現される「悪事」に満ち満ちているのが「娑婆・濁世」の真相。理解という事の、最初の一歩をこの厳しい現実直視から始めないと、私たちの理解はとんでもない方向へ向かってしまう。くれぐれも、御用心、ご用心!