「自己理解という言葉をめぐって」その十九
私たちの思想や感情は、言葉によって表現されます。そんな事は改めて言われなくても、当然の事ではないか、と軽く受け流されてしまいそうですが……。本当に、あなたはその事を自覚されておられるのでしょうか?日本に近代批評の分野を確立した小林秀雄の畢生の作「本居宣長」を、今年の三が日に三度目の熟読玩味をいたしましたが、言葉にならない「妄念・妄想」の類がいかほど胸中に渦巻いていても、それは自己表現にはならない。勿論自己理解にも繋がらない―、そのような記述がありました。本居宣長の言葉を借りて、小林は自分自身を明瞭に語っているのであります。本居宣長の思想界における孤絶と誤解。それは取りも直さず、批評家・小林のそれでありました。 ロシアの文豪・ドストエフスキーの研究に代表される「外国かぶれ」の小林が晩年に突然のように「日本回帰」を遂げ、遺作として「古事記伝」の大著で知られる国文学者・本居宣長をして、自己の一生を、その批評家・思想家としての本質的なあり方を、仔細に、また懇切丁寧に解説しているのであります。私は小林の「くどいようだが」と何度も念を押し、噛んで含めるように、煩を厭わずに分かり易く本居宣長、否、小林秀雄本人の足跡を、思想のあり方の実際を説明している。その優しさと、愛情を身に沁みて噛み締めながら、思わず知らず涙がこぼれそうになりました、何度も。本居宣長ほど著名でありながら、そしてその偉大さを世に認められていながら、根本的な誤解と無理解とに囲繞され続けている偉人も極めて稀な存在。小林は本能的に自己と酷似した姿を宣長に見たのでありましょう。 小林は本居宣長は世の誤解を百も承知で、思想界の主役を勤めたのだと書いている。宣長は単に、自分はこう思うと発言したに過ぎないのだが、本来、他人の意見などに何の関心も持たないの世間という厄介な代物が、自分勝手の鵜呑みの偏見で、あれこれと揚げ足を取りにかかる。―本当に、実際、理解などという面倒な事柄は、とかくに偏見と誤解しか生み出すことが無いかのように、世間を混乱と空騒ぎの坩堝に陥れる。実に、実に、本来の自己理解など、誰も本気では取り組もうとしない。何故か?一体何故でしょうか?一度、いや何度でも、篤とお考え下さい、皆さん。