「理解」という言葉をめぐって・その二十
言葉を通してしか、人は自分自身を、そしてまた他人をしっかりと、明瞭に理解するしか仕方が無い。それ以外にはたとえば以心伝心などという仏教の達人同士が「理解しあう」方法があるようですが、私たち凡人には応用が利かない、まるでマジックのような高等技術ですから高嶺の花同然で、とても手が届きませんね。もっとも私たち平凡人でも、気持ちが無言のうちに通い合ういくつかの瞬間を体験してはいるのですが、それとても、果たして両者に本当の意味で意志の疎通・コミュニケーションが成立していたのかは、定かではないのです、実際。 言葉はとても便利で、利用価値がある道具でありますが、本当に伝えたいことこれだけは是非とも理解して貰いたいと切に願う事柄に関しては、誠にもどかしく、頼りない気持ちを拭い去ることが難しい。なんとも頼りないツールであり手段だと、ついつい八つ当たり的な悪態をつきたくなる場合もしばしばです。本当は言葉の責任ではなく、思いや感情などが雑然とした状態のままで、表現者本人にも明瞭には把握されていないことが真の原因なのでしょうが。それと、本質的には誰もが自分の言いたいこと、主張したいことのみに気をとられていて、他人、相手の伝えたいことの真意が何処にあるのかを、親身になって、我がことのように丁寧に聞き取ろうとする誠意や熱意が無い。または、自分流にしか相手の言う事を聞こうとしない。つまり、関心が終始自分自身であり、話者の側にはない。そういうケースが大多数なのでありましょう。自己中心主義といえば、誰もが自己中心でしかあり得ないし第一に人間には他己中心にはなり得ない。そう言った単純な原理なのかも知れませんね。 だから、理解ではなく、誤解ばかりが世間に蔓延し、それに尾ひれがついて、更に混乱や誤解の渦が大きくなり、手の施しようがなくなる。そういった按配のでありましょう。