綺麗は 汚い?! その続き
見出しの言葉に、前回は直接的には、ほとんど何も触れて居りませんので、あるいは何のことやらと訝しく感じられたお方もおられたかもしれません。しかし、注意深くお読みいただいている方なら、充分に 意味 が伝わるようには書いているのでして、殊更謎かけをしたり、読者を惑わすつもりなど毛頭考えてはおりませんよ。何より私・草加の爺は必死なのであります、命懸けなのでありますね。従って、余裕がないのであります、はいただ、それだけのことですので、多少の 説明不足はお許し下さい。 さて、綺麗は汚い、でした。綺麗と汚いは反対の概念を代表するものとして提示しましたので、正しいと悪、でも、あるいはまた、明と暗、生と死、などでも一向に構わないわけでありますね。つまり、両極端と見えるものは実は、その本質において同義である。融合して一つに合体してしまう。見分けがつかなくなってしまう。その様な意味合いを含意していました。何故、そうなるのか?私たちを生み出した宇宙なり、絶対的存在がその様な矛盾や謎を孕んだ存在であるから…。禅問答のようで、この種の本質的な命題に不慣れなお人には、難解と思われる真理なのでありますよ。 私達、人間の理解力というものは実は 狭隘 で非常に限定的なのであります、実際には。分析的、合理的、客観的、科学的、などという現代人にとって非常に「魅惑的な」言葉は絶対的な存在者の側から見れば「井の中の蛙の戯言」にしか過ぎない。驚くべきことに!「直感」という一見怪しげな言葉こそ、人類という 儚く また 脆い 存在にとって絶対者に回帰する唯一の方法なのであります、実に、悲しいことに…。 私は以前に、自分自身がこの世に生まれてきた意味が知りたかった、というふうに表現しました。そして、71歳を過ぎた今、普通では 遅きに失する年齢になって開眼し自己の使命と思われる目標をめがけて、まっしぐらに「猪突猛進」しようと意気込んでいます、張り切っています、実際。しかし、それは一面の事実であり言葉の綾というもので、実は、心は澄んでおります、意外でもなんでもなく、実に穏やかで、落ち着いてさえいます、不思議ですね。でも、絶対者から見れば当たり前のこと。何時も、人生の重要事は「差し迫っている」のであり、それゆえに、腰を落ち着けて「急がば回れ!」の精神を忘れてはならないのでありますよ。浮ついた、拙速な態度では何事も 成らない のであります、当たり前のことですが。