神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 三十七 回 目 私は、これまでに五匹のペットを飼った経験が有ります。最初は猫、そして次にシェパード、三番目はスピッツ、次いで雑種の黒ネコ・カンナ、そしてニューヨークからはるばる海を渡って来たトビー(スムースという犬種のチワワ)。あっ、そうそう、アンゴラ兎の事を忘れていましたが、「キィー」と断末魔の叫び声を残して、この世を去っていった純白の、小さな、そして実に儚い生き物。しかしながら、それぞれに短期間での付き合いでありましたが、私の心の襞に、確かな忘れがたい 想い出 を残していった、そう、同じ「生命・いのち」を共に生きたという強い共鳴・共感の手触りのようなもの。儚くて、繊細で、壊れやすくて、それでいて確固として、鋼鉄製のバネのように強靭で、しなやかで、懐かしく、温かい…、何よりも 優しい のでありますね、実に。彼等、ペット達は「本能」という神の演出に飽くまでも忠実に生きた、本当に。そして見事な「生き方」であった、人間と違って、余計な自己主張などは一切しないので。彼らは皆一様に、「謙虚」でありました、また、健気なほどに「素直」でもありましたね、実際のところ。付け加えるに、実に清潔でありました、その精神性が。普通には、動物には精神性を認めず、本能の赴くままに行動するのは 野獣 のように汚らわしい、と形容されたりするのですが、私はそれらの通念を否定したいと思います、きっぱりと。本能は本来 清潔 そのものであり、動物たちの「精神性」は気高く、高貴とさえ呼んでいい。それに引き換え、人間の本能は「薄汚れて」、偉大なはずの精神性は地に落ち、薄汚く、不潔にさえ堕してしまっている。だれが一体悪いのか。誰でもない、人間が悪いので、自業自得なのですよ、何もかも。人間どもの 奢り昂ぶり があらゆる禍事を将来しているのに過ぎないのですね、そう。― こう書いてきて、私は自分で可笑しくなってしまいましたね。だって、D.H.ローレンスの口真似をしているようではありませんか、語彙も、表現も、そっくりに。影響を受けるということはこの様な事を指していうのでありましょう。 人間(じんかむ)の禍福(くわふく)は愚(おろ)かにして料(はか)りがたし 世上(せしよう)の風波(ふうは)は老(お)いても禁(きん)ぜず ― この世での、人間世界における禍いや幸福がどの様な理由によって生じてくるのか、私は愚かにしてよく分からない。また、これまでは辛うじて世渡りの荒い波風を凌いで来ることができているが、この波風は、年老いたからといって手心を加えてなど呉れない、非情なものである。 事々(ことごと)に成(な)すことなくして身(み)また老(お)いんたり 酔郷(すいきよう)知らず何(いづ)ちかゆかんとす ― あれこれと色々な事をやってみたが、これといって手柄にするようなことは、何もできなかった我が人生であるよ。酒を飲んだ時の忘我の快楽も体験せずに、何事を楽しみとして身過ぎ・世過ぎをして行ったら良いのか、馬鹿な上にも、愚かすぎる己であることよ、実に 何(なに)をして 身(み)のいたづらに 老(お)いぬらん 年(とし)のおもはむ こともやさしく ― 一体全体、この私はこの年齢になるまで何をしてきたというのであろうか…、そう反省すると、長年付き合ってきた 年 が自分のことをどの様に思うかと、顔から汗が噴き出すほどに恥ずかしい。