神慮に依る 「野辺地ものがたり」
第 四十四 回 目 わざわざこんな風に、回りくどい断りを述べずにはいられないほど、私が 性 の問題に関して、古風で、頑ななことはあなたはよく御存知のはずですわね。時代遅れでも、旧弊でも女は、いえ、私自身は男女のセックスの問題には、こだわらないわけには行かないのです…、私には難しい理屈はわかりません。あなたが色々とお読みなった外国の小説や戯曲などに現れた、新しい女の生き方、若い男女の自由な恋の在り方。そして、それを支えている新しい時代の思想・哲学など。あなたのように東京の一流大学で、文学を勉強し、将来教師になられようとしている方の話されることですから、頭の悪い私は私なりに、一所懸命理解しようと努め、あなたにはお話しませんでしたが、あなたが例として挙げられた本を、何冊か買ってきて、勉強もしてみました。そして朧ろげながらも、あなたが仰有った事柄の幾分かは、理解できたようにも思われました。でも、本当には、飲み込めなかった。いえ、いえ、残念ながら私には難しい理屈は無理だった、ともう一度正直に告白すべきでしょう。 しかし、私には私流の生き方があります。どんなに心を許し、尊敬している相手でも、女としての私は、男であるあなたに拘泥しないわけにはいかなかった。簡単に唇を許したり、若い男女がよく出入りしている同伴喫茶やホテルなどへ足を向けることが、ひどく憚られた、いえ、男の人と手をつないだり、肩を寄せ合ったりすることすら、他の人たちの様に気軽に出来なかったのです。こう書いたからといって、私は何も他人様の事をとやかく申そうというのではありません。私はただ、自分の気持ちをありのままに、出来るだけ飾らずに披瀝したいと、考えているだけに過ぎませんの。そしてこの自分自身の物の見方、感じ方に従って行動する、私にとってはごく自然な態度が、あなたの目に依怙地で、水臭いものと映じたとしたら、事実、それが私に対するあなたの側の大きな不満でもあったのでしょう、それはもう、致し方の無い事だと、現在ではおもいます。でも、あの頃はそう簡単にあなたとの仲を、割り切って考えることは不可能でした。あれでも、色々様々、迷ったり、悩んだり、あなたの意向に合わせようと、可能な限りの努力を惜しまなかった心算でいます。それでなくてどうして、あの慌ただしく、忙しい一方で、物心両面に少しの余裕のない生活の中から、あなたに会う時間や、あなたとお話する為の読書の暇を、捻出することが可能だったでしょう…。くどいようですが、私はいまできる限り 在りの儘 を述べることに意を注いでおりますので、そのおつもりで、お読みくださいませ。 実際、地方からたった一人で東京に出て来た娘が、誰からの援助も無しに、部屋を借りて生活していく事は、想像以上に困難でした。その上、私は専門学校とは言え、夜学に通って勉強しなければなりません。通常の生活費の他に、授業料や教材費など、月々の出費は、切り詰めると言っても限度がありました。その上に、私の様にコネも何もない田舎娘が、昼間だけ働いて得られる収入は、嵩(たか)が知れているのですから。 時折、苦しさのあまりに学校を止めようか、それとも、両親に何もかも正直に打ち明けて、金銭の援助を乞おうか、と考えることもありました。が、それでは何のために今日まで、一人で頑張ったのか分からなくなってしまう。父や母があれ程に強く反対したのを、無理やり押し切って出て来た身が…。僅か二年余りで音を上げて、泣きついていくというのは、いかにも不甲斐ない。そう、考え直して、つまりは、自分の挫折や失敗を認めるのが悔しいばっかりに、歯を食いしばって耐えたのでした。勿論、あなたの存在も、私の心の大きな支えには相違なかったのですが、同時に、それに倍する、物心両面での大きな負担を蒙った事実も、否定しきれないのですわ。 上京してからあなたに出逢うまでの時期、私は可能な限り切り詰めた、ぎりぎり最低の暮らし方をしていました。テレビやラジオを持たないのは勿論のこと、新聞さえ自分では購入しないで、勤め先や図書館に行って読んでいたと申し上げれば、その他のことがどんなだったか、容易に想像していただけるのではないかしら。その私にとって、あなたとの交際を保っていく事は、いわば必然的に困難を伴うことだったのですから、最初から誰が悪いというような性質のものではなかったのですね。私は、あなたと一緒に過ごす時間が楽しかった。あなたのことを頭に想い描きながら、あなたに教えられた本を買い、通勤の途中や夜学への行き帰りの電車の中で読書する幸せを、噛み締めました。そして、幸福を手にするには、それだけの犠牲を支払うのは、当たり前なのだと思っていました。映画を観たり、お茶を飲んだりした際に、私が必ず折半、つまり 割り勘 を主張して譲らなかったのも、そういう考えが根底にあったからでして、決してそれ以上の意図はありませんでした。それに、二人分の勘定を持つとしたら、親掛りの学生の身分であるあなたより、私のほうがより相応しかったでしょうから…。とにかく、そうした 贅沢な 出費や、時間の 浪費 は当時の私にとってかなりの痛手でした。それにもう一つ、精神的な負担と言いますのは――、清水の舞台から飛び降りる程の勇気を出して、申しましょう、あなたの男性としての要求に素直に応じられないことから来る、心の悩みがあったのです、ええ。 二人の仲が深まり、恋の気分が昂まるに連れて、ごく自然な愛の表現として、接吻から抱擁、そしてそれ以上の関係へと移行していくものなのだと、観念的には理解できたようでも、実際の行動としては、なかなか頭で考えるようには行かないのでした。強い拒絶に遭ったあなたが屈辱を感じた以上に、私の方も激しく困惑し、また、直後に、あなたに対する申し訳ない気持で、胸が一杯になるのが常でしたわ。