神慮に依る 「野辺地ものがたり」
第 五十 回 目 昨夜(平成27年9月24日)、東京タワーの夜景が直ぐ間近で見られるイタリアン・レストランで食事をしてきました。と言うよりも、次男・正成の絵が展示されているのを家内と一緒に観に行った、と申し上げるのがより正確でしょうか。正成はもの心がつくかつかないかの頃から、粘土をいじるのが好きで、近所の陶芸教室に通ったりしていたのですが、成人した今は絵画の方に打ち込んで、仕事の傍らアーチストとしての活動を活発に展開しています。ニューヨークで個展を二回も実施したのを始め、韓国やイタリアの展覧会にも出品したり、国内でも地方のイベントなどにも招待されてユニークなアクリル画等を披露して、注目を集め始めている。また、その絵のモチーフが独特で、「酔っ払い」の陶酔境とでも称すべき表情や風情などを、柔らかなタッチで描出するもの。 来月、十月の連休にも八戸市の「酔っ払いに愛を2015~横丁オンリーユーシアター」なる催しに招待されて、活動してくる予定になっている。 八戸と言えば家内の弟・義弟の守さんが、「舟膳」という和食のお店を数十年にわたって営んでいる。守さんは東京で板前としての修行を積み、生まれ故郷に近い漁業のまち八戸に、自分のお店を構えるようになっのでした。彼の板前としての腕は確かで、常連客に青森県選出の国会議員がいたり、食通の能村氏(フジテレビの時代劇、特に池波正太郎作品などを数多く手がけている大プロデューサー)が近所にあったら毎日でも通いたいと、私に洩らした事があったほど。 さて、最近とみに私・草加の爺は 神の演出 乃至は 演出家としての神 ということを頻りに考えております、はい、しばしば。この現象は特別に今に始まった 恩寵 ではなく、これまでの人生の旅の道程の折々に、そこはかとなく、「神からの手」が差し伸べられて、あたかも自分自身の自由意思で選択したかのごとくに、ある特定のコースを辿る様に導かれ、結果として、自他ともに 最大の利益 を蒙っていた。そういう幸運が天下って来ていた、それとなく、やんわりと…。これは何も殊更に、私という特殊な人間にだけ向けられたパワーでは無く、生きとし生けるもの全てに、巧まずして加えられている 自然の妙 なのでありまして、その絶妙なる「糸(意図)」に素直に従ってさえいれば、つまりは「つまらない我」を綺麗さっぱりとぬぐい去って、背後からの演出者の意のままに操られていさえすれば、良いのでありますね、実際。 たとえば、道の辺に咲いている野草の花が、その風情や佇まいが、どんな高級な人工の高価な、草花よりも美しく、気品がある。この世のものとも思えないほどの魅力があり、この上もなくチャームされてしまう。また、野生動物の一瞬の動作が、何とも形容しがたい典雅さを示している。水中を行く小魚の躍動が、筆舌に尽くしがたい優美を表現している ― こういう例を挙げていたらキリがないほどに、数多く見られますよ。イエスも野に咲く百合の比喩で、この事実を指摘していますが。(*Consider the lilies of the field, how they grow ; they toil not , neither do they spin: and yet I say unto you , That even Solomon in all glory was not arrayed like one of these ― 野のユリを見よ!働きもせず、紡ぐこともせずに、生えているではないか。しかも、人間の中でも豪奢を極めたソロモン王でさえ、野の百合程に美々しく装った時を持たなかったではないか…) 唐突に思われるかも知れませんが、私が三十六歳の頃に走り書きした小説を題材にして、如何に無心に、心を澄まして 被表現者 に成り遂せることが出来ていたか否かを、これからご一緒に検証してみたいと考えます。少しく長い文章の引用になりますが、好意的にお付き合いをお願い致したいと思います。どうぞ、よろしくお願い申し上げます、くれぐれも、どうぞ宜しく―。