神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 六十七 回 目 聖が義清に与えたのは、弘法大師・空海の筆になる『即身成仏義』の抜萃であった。自身で書写したものらしく、力強い筆跡の本文の脇などに、同じ手跡で、細かな書き込みが記されてある。真言に限らず、仏教関係の教典の類を、本格的には学んだことのない義清には、その書は難解に過ぎた。 一年が経過して、義清が再び東山の小庵を訪れた時、既に聖の姿は、其処に無かった。義清は何か最後の糸を絶たれたような、深い失望を覚えた。 更に二年が経過し、その間に義清は左兵衛の尉になっていた。彼への上皇の寵愛も、待賢門院からの格別な篤いお情けも、また、一時感情を害していた公能の寄せる友愛の情も、これまで以上に大きく鞏固なものに、なっていくようであった。この頃、人々の目に映る義清の姿は、年若くして己の非を悟り、仏道に深く志を寄せる、優婆塞(うばそく、在俗のまま仏門に入って修行する男子)のそれであり、その無欲で殊勝そのものの態度は、ひたすら称賛に値するものであった。 が、そうした表面的な、平穏無事さとは裏腹に、義清の胸裡心中では、激しく鬩(せめ)ぎ合う野火の如き、情念の炎(ほむら)が、彼の頑健な躯を殆んど燃え尽くさんばかりに、猛威を振るい続けていたのである。否、躯ばかりではなかった。通常では考えられない、超人的な精神力と、意志の力が、発狂寸前の業苦の最中で、平然として試練に耐え抜く事を、辛うじて、可能としたのである。 義清は或る衝動に、取り憑かれていたのだ―、それは一種の強迫観念に似たものであった。昼、目覚めている時にも、夜、夢を見ている際にも、四六時中ずっと、彼の意識の片隅には、暗い闇に潜む魔物のような強烈な衝動が、獲物に襲いかかる機会を覗い、不気味に見詰め続けている気配を、常に感じていたのだ。幾度も、その強い衝動に屈服する、自分を意識した。脂汗の滴る如き辛抱と、忍耐とを捨てて、一気に自分を解放する瞬間の、自由さを思い描いた。その得も言われぬ甘美な誘惑に、身を委ねる快感を夢想した。が、同時に片方では、飽くまでもそれに耐え、対抗し続けなければならない宿命のような、大きな力をも感じていた…。 保延四年七月七日夜、義清は或る重大な決意を胸に秘めて、家を出た。上弦の月が山の端を離れて、中空に冴え、その光を透かして星屑の帯が、硬質の燦めく銀波を、地上に送っている。天上の世界の何と美しく、清浄なことか…、伝説の華麗な恋物語が素直に信じられる静寂と、神秘の世界である。それを眺める己の姿は、邪悪な鬼の醜怪さ―――、義清の脳裏に、ふとそんな自嘲的な言葉が浮かんだ。ままよ、既に骰子は投げられているのだ、地獄へなりと、何処へなりと、この両の眼(まなこ)をしっかりと見開いた儘、行き着くところまで行き着いてみせるだけのこと。…遠くで梟の声が聞こえる。ここから先は、北面の武者たる自分も踏み込んだことのない、いわば 神域 であった。近寄る者を威圧するが如くに聳え立っている、厳重な囲い塀。警護役に就いている、女房たちの白い影。黒々とした木立の間から漏れる篝の灯り。義清は己の心が死んだように平静なのを自覚していた…、夜の静寂に同化し、自分が夜そのものの様に同化し、自己が、夜そのもの、闇そのものに、化身したような錯覚。しかも手や足は、機敏そのもの、正確無比に行動し、物音ひとつ立てない。―― 夜露の降り始めている植え込みの陰から、渡り廂に躍り上がり後は、運を天に任せて、進むより手はない。が、義清には確信のようなものがあった。薫物の匂いである。彼を目指す相手の元に確実に導く、縁となるそれは、天人の辿る 雲の中の通路 に異ならなかった。事実、義清は天にも登る夢見心地で、漆黒の闇の中を歩んでいたのだ。 最初は殆んど感じ取れなかった名香の余薫が、ほんの幽かではあるが、義清の鼻腔に達した頃には、周囲の佇まい・気配が朧げにではあるが、弁別できるようになっていた。何故か、その辺には女房の姿がひとつもない。唯ひとり、あの、人の心を妖しく酔わせる香りを発するお方の、気配だけが、幾重にも垂れ込めた帳の奥にあった。その時、帳の奥の人物が義清の接近を知ってか、静かに瞳を凝らす様が想像された。それも、本当に僅かな、耳に立たない程の衣擦れの音で、鋭敏に研ぎ澄まされた義清の神経が直覚しただけのことである。 ほんの数秒間、義清は歩みを止め、妙香の漂い来る前方を、見遣った。仄かに、白いものが闇の底に蟠踞している如くに見えるだけで、空気の微かな戦ぎでさえ、それと分かる程の静寂が、四囲を支配している。 その闇と静寂とを一気に切り裂く様に、義清はつかつかと帳台の中の、白い影に向かって接近した。馥郁たる衣を纏った女性が、身じろぎもせず、義清を待っていた。手を伸ばせば相手の体に届く至近距離に立って、義清は女の面を見下ろしている。相手も、鳥羽上皇の女御・得子もつぶらな瞳を大きく見開いて、義清の顔を真正面から受けて、見守っている。…得子の激しい息遣いが、彼女の心の昂ぶりと緊張とを、表現している。変わらない、あの時の 碧い瞳の乙女 が今、此処にいる、義清はそう思った。そして、そう思った時、全身から力が抜けて行くように感じられた。