深慮に依る「野辺地ものがたり」
第 七十五 回 目 出家した義清の前に、現世が別の相貌を呈して、現れてきた。恋の為、己の生存の証の為にも、捨てて悔いなかった筈のこの世での生活が、非常に愛おしく、愛着あるものに思えて来た。妻や愛娘との家庭生活、院に仕える公務、父や母や弟達との情愛、朋輩達との友情、どれもこれもが堪らなく懐かしく、掛け替えのない貴重な物に見える。彼の心に迷いと後悔の念が、生じたのであろうか?否である。浮世を本当に捨てた者にだけ解る真実というものがあるのだ。心の迷いや後悔と呼ぶには、余りにも美しく、又、限りなく大きな現世に対する、愛惜の情である。 そうした人生への量り知れない魅力に目覚めた義清にとって、己の強さや勇気を証明する行為であった、得子への闇雲な情熱もまた、違った意味を持つに至った。在俗時の彼は燃え盛る炎・得子を目指して突進し、為に身を焼き盡くす夏の虫さながらであった。しかし今は得子は夜空に燦然と瞬く星である。彼の新しい人生の門出に、明るい希望の灯火を掲げる、暁の明星の如き存在と化した。 とは言え、秋の夜長に一人虫の音に耳を傾けている折など、心をよぎる寂寥と孤独の想いは、遠くかそけき光の存在を忘却させる。誰に縋り、何に頼って、生きていこう…。或る時は、月影にも擬える御仏の教えが、また或る時は昼の太陽に譬えられる神の存在が、彼の苦境を救い心を慰める縁として、顕現することもある。が、神や仏は余りにも実体のない、非人間的な対象でありすぎる。今の義清が一番必要としていたのは、彼と同じ血の通っている、近寄れば暖かい体温の感じられる、人間であった。人間でなくとも、せめて声を発して鳴く虫や獣なりとも、と淋しさに耐え切れずに、思うこともあった。それでも、夜毎に細って行く蟋蟀の声を耳にする際には断腸の愁いを重ね、一層苦しみをますばかりである…、人が恋しい、恋しくてならない。気も狂わんばかりの煩悶は、幾晩も繰り返し襲ってくる。そんな最中に、月の光が妖しい魔力を添えて、萩原の其処、此処に潜み隠れている悪鬼共の影を、彷彿とさせるのだ。義清の衰弱した神経が、奇っ怪な幻影を闇の世界に展開させるのか、はた又、俗塵を去った清浄な心眼が、仮の世に宿る真実の姿を、垣間見させるのか、定かではなかった。義清にはっきりと解っていた事は、その鬼共の醜怪な容貌も、不様な動作も、彼にとって等しく心懐かしく、慕わしい昔馴染みにも似た、仄かな、しかし確かな郷愁の情を齎してくれる好ましい性質のものなのだ。 日夜を分かたず襲ってくる、様々な煩悩と寂寥の責め苦が、義清に発見させたもう一つの物、それは文学、和歌であった。学問であると同時に、上流貴族社会に身を処す社交上の大事な道具でもあった、敷島の道・歌道が出家した義清に謂わば仮面を取った、素面の魅力と可能性とを、自ずから啓示するに至ったのだ。彼の歌人としての資質が然らしめた、必然であると言えるかも知れない。兎も角、義清は自己の種々の心の憂さを 三十一文字に託して吐露したのである。それは義清の強靭な生命力の発露であり、自分自身に対する積極的な肯定の姿勢にも、道を通じていた。但し、彼自身の主観的な立場に即して言えば、死にもの狂いの必死さに近い、足掻きにほかならなかったが。 俗世の諸々の絆を一応断ち切った身にとって、心を遣り、縋り付くべき対象は、実体の無い 言葉の世界 にしか見出し得ない道理であった。そしてまた、僧侶としての彼の本業たるべき仏道修行と、彼が今新たに発見し直した、この和歌の道とは決して矛盾も齟齬も、しなかったのだ。いや、そればかりではない。両者は積極的で、密接な関連を有していた。己の心の苦闘をぶつけ、格闘する相手は、自身の中にもあったがもっと大きな存在、血筋とか宿命とか呼ばれ、或いは、歴史とか自然とかの言葉で表現される、自分を遥かに超え、自分を支配している何物かとの対決、この方が比重が勝っている…。 別の言葉で言えば、己と戦うことによって、御仏と戦うことでであった。人の世に偏在する永遠の存在を、己の中に発見する事、と言っても良い。弘法大師空海の説く 即身成仏 とは、その様な事を意味するのではないか?難解な「即身成仏義」を熟読玩味した果てに、彼が掴んだ一応の解釈でもあった。