深慮に依る「野辺地ものがたり」
第 八十三 回 目 谷川の流れに沿って、西行は下っていった。木樵たちがつけた径であろうか、所々で途切れたり、藪の為に遮られたりしていたが、人里のある山麓に出るまで、殆んど迷うことなく、道を辿ることが出来た。途中、見事な山吹の咲き誇っている崖下で、暫く足をとどめた、名も知らぬ山鳥の囀りが、遠くから聞こえていた。見上げると、目の覚めるような深緑の、空の色が、樹々の間から覗いている。思わず西行は己の両の掌を、眼の前に翳してみた。先程、渓流の水で綺麗に洗い落とした筈の血糊が、まだそこにこびり附いている様な気がして…。 ……… 眞木は今日の暑さのせいもあって、自分が疲れているのだと感じた。まるで眠気を感じなかったが、妻の寝ているベッドの片隅に、身を横たえてみる。春美の鼾は収まって、静かで、安らかな寝息に変わっている。 春美との新婚当時の、新鮮で、楽しかった思い出が、断片として切れ切れに、浮かんでは消える。童貞の自分は、異性の肌に触れる喜びに、酔い痴れる一時期を体験した。しかし、それもほんの束の間の短い期間にしか過ぎなかった。直ぐに、惰性と習慣との、単調な繰り返しにと色褪せ、現在では、むしろ苦痛を伴う、一種の義務意識へと、堕落してしまっている。一年に、一度か二度、それでも彼の中の 雄 が、何かの拍子に不意に目覚めて、自身でも意外なほど行為の中に没入し、予期しなかった強い高揚感を、獲得する事があった。 その体験から推して、若く、瑞々しい、未知の相手に接し得た際には、まだ、二十代の新婚時代に味わった、忘我の陶酔を、取り戻す事は可能かもしれない、と感じたことがある。 そして、その様な無意識の作用が、先ほどの如き奇っ怪至極な妄想や、昼間の様な幻想となって、現れるのではないか…。が、佐々木法子の未成熟な肉体に、セックスの対象としての不埒な欲望を唆られている覚えは、どのように考えても無かった。もっともフロイトの説くリビドーとかの作用で、自分では意識できない、そういう形での、歪んだ性衝動の発現があり得るのだと、誰かに決めつけられたりしたら、気の弱い彼には、抗弁の余地はなくなってしまうのではあるが…。しかし、淫蕩らしい母親に対しては、積極的な好奇心と、関心を抱いている。それを認めることに、吝かではない。がそれは飽くまでも、眞木が強く惹かれているあの少女の産みの親としてであり、少女に関する事、“心の恋人”をより良く理解する手懸りになる事柄なら、どんなに些細な事でも利用しようとする、恋する者の通常の心理の枠を、越えるものではなかった。それにしても何故、あんな奇妙な白昼夢を、一日の内に立て続けに二度も、経験する様なことになったのか?こんなことは、嘗てなかったことだ。 やはり暑さのせいで、神経に異常を来たしてしまったのであろうか…。一体に眞木は、夜の睡眠中は勿論、昼間のうたた寝にも、夢を見ることのない男であった。元来が健康体であるためか、寝つきがよく、その儘熟睡が出来、朝の目覚めも快適であった、しかしよく考えてみると、あの少年の時の初恋を体験した当時には、これに似た現象があったようである。もう三十年も昔の記憶であるから、甚だ心もとない限りだが、確かに今回のような心の変調が、規則正しい生活のリズムと精神生活を、一時的に狂わした。が、それは幼い少年の頃の、話である。いくら何でも四十歳を過ぎた、妻子ある分別盛りと言われる年代の異常と、同列に論じるわけにはいかない…、それにしても、さっきの妄想の中の思考が、変に気懸りで仕方がない。例の弱者は「悪」だとする考えである。通常の、極く当たり前な思想からすれば、強者、乃至、権力者は「悪」とされるから。 仮に、強者が悪であると仮定すれば、現代の国家権力は、悪の典型である。歴史上の権力者・支配者のことごとくが、強大な権力を掌握していたが故に、悪であると断定できる。 勝てば官軍は、紛れもない歴史的な真実であろうが、敗者の側から「悪」の烙印を捺されても、文句は言えない道理だ。正義と言い、悪と呼ぶが、相対的で、一時的な判断でしかない。とすれば、善悪の評価に絶対的な価値を置くのは、考えものである。 今日では、大衆とか庶民、民衆とか、様々に呼称されている、力なき弱小者の群は、当然の権利として自らの「正義」を主張する。主張して止まない。考えてみれば、彼らは自ら好んで権力の座に近づかないわけではない。その力と、技倆と、才覚の点で欠けているから、「善」であり、「正義」で在り得たに過ぎない。その力無き弱小者の群は、衆を頼んで現在の権力者の打倒を、目論んでいる。そして、一度己が権力者の側への鞍替えに成功した暁には、弱者こそ悪であり、権力こそ正義であることを、生まれる先から信じ切っていたような顔を、しそうな連中が、うじゃうじゃと蠢いている。しかし眞木にはどれが、出来そうにない。生まれついての小心者と天から、自分自身を観念し、諦めている彼は、ともかくも分相応と言う事を、知っている。他人に対して自慢出来ることは、外に何一つとして無かったが、その点だけは、人に誇って良いと思っている。 世の中には、偶然やまぐれで出世したり、金儲けをしたりする人は大勢いるが、自分でそれを謙虚に認めて、私は幸運であった、と言う人は皆無だ。皆、一様に、自己の才能と努力で、全て計算ずくで勝ち取ったような、顔をする人ばかりだ。世に言う成功譚、サクセスストーリーの類は全てそれである、といった意味の意見を、何かで読んだ記憶がある。眞木には、その種の能力が、根本的に欠如していた。それで、そういう人の心理が、よく理解できないでいる。彼には公立中学校の教頭の地位でさえ、居心地の悪い、窮屈な気分を、抑えきれずにいるのだから。自分の如き男が、教員になれたことすら、何かの間違いではないかとすら、危ぶんだ。それが、曲がりなりにも、現在では校長に次ぐ組織の管理者の立場に、昇進している。自分にとって、これに過ぎる幸運はないと、本来信じていない筈の神や仏に、感謝してさえいる。或る時に、その事を正直に打ち明けると、それまでに見たことも無い様な、軽蔑の色を満面に浮かべながら、 「そんな、バカな事を言っているから、あなたは、それ以上出世できないのです。せっかくのチャンスもみすみす潰してしまう事に、なるのですよ。もっと、男らしい野心を持って下さいな、野心を!」ー野心家でないからこそ、君のような女で、満足しているのさ。そう、口元迄出掛かった。が、例の臆病の虫が、それを思い止まらせた。野心とは結局、自分の柄で無い事を、自分の柄であると信じ切る、底抜けの楽天性を意味するのだろう。