神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 九十 回 目 個人を超越した、大きな存在者の手元の動きを感じ取っている者にとって、表面的な華々しさや、一時的な名声・富など、何程の価値も持たない。人間の幸・不幸を決めるものはもっと別の所に、認められる事を、見極めているからだ。 保元の乱直後から、再び高野山に籠り、時局の移り変わりを静観し続けている西行にとって、平治の乱は先の乱の、単なる延長としてしか、捉えることは出来ない。事態の本質的な山は、既に見えていたのであるから。 時代の変革を代表するものが、京の都に繰り広げられた、戦乱であったとすれば、西行個人の青春の終焉を象徴しているのが、落飾して真性定と号した美福門院の死、であろう。 青春が、単なる若さの代名詞として、機能するのではなく、様々な方向に揺れ動く生の、可能性の豊饒さを包含しているとすれば、の話である。しかし、これは直ちに西行の後半生が狭隘、且つ、貧弱であった事を意味しない。 青春の終焉とは、豊かな将来の実りを約束する、確かな種子が、最も肥沃な土地に播かれた事を、正しく意味している。 従って、折からの、降り積もる雪の中で美福門院の遺骨を、高野のお山に迎える西行の胸中には、深い悲しみの感情の底に、或る清澄さが宿っていた。― 過ぎ去った、懐かしい日々への痛切な想い、心の慟哭…。往時への淡い、感傷の情ではなく、今では取り返す術もなく、遠く隔たってしまった若年への、限りの無い愛惜…。 それ等、大波の如く次から次へと、押し寄せる激情に身を浸し、翻弄されるが儘に、委せ切る事が可能なのは、彼が常にギリギリの人生を、その時々に、精一杯生きて来たからに他なるまい。どうしようもない必然を、自覚的に辿って来たからこその、正当な後悔、とは言葉の矛盾であろうか…。 美福門院の死は、西行に悲哀に感情だけを、齎したのでは無い。彼女は此の世での生を終えた今始めて、西行の心の中に、永遠の生命を得た。そうとも言えるのだ。美しく、妖しく、高貴な、決して盡きる事のない魅惑に溢れる、久遠の存在。それは人生の理想と見做し得る、美しさで輝いている。西行が生き続ける限り、彼女の思い出もまた、燦然と生き続けるに相違ない……。 ここに一つ、小事件があった。この年、永暦元年、美福門院・藤原得子の逝去に先立つ四ヶ月前の七月、一人の老僧が禅林寺南隅に塚を築き、自らを埋めるという、市井の出来事としてはかなり衝撃的なものである。 西行は勿論、この事件を直接に目撃したわけでは、なかった。都からの便りや、自然に届いて来た噂などで、事の概要を知っただけである。その話を聞いた時西行は、何故かあの空海の即身成仏義抄を彼に与えた、西山の修業僧の姿を想い起こしていた。あの雨に打たれて、瞑想に耽っていた聖の顔の表情を、二十年後の今日でもありありと、思い浮かべる事が出来る。 あの、何処の、誰とも知れない聖が、あの時の儘の表情を崩さず、夥しい数の群衆が一様に好奇の眼差しをむけるのを尻目に、従容として死に就いた。その有様が手に取るように、想像出来る。西行の気持ちの中では既に、その老僧は、あの時の聖と、決められていた。扨その上で、かの聖は何故に、その様な見世物じみた最後を演出したのかと、訝しく思ったのである。 あの孤独に徹し切った超俗の姿勢からは、少しもその様な振舞いが、連想できない。その癖に正にその様な死こそが、あの時の聖の最後として最も相応しいような、奇妙に矛盾した確信も一方に存在する…。それにしても何故、如何なる理由があって、あの聖はその様な 死 を死んだのか?彼にとってその死は、必然だったのか…。それは空海の説く即身成仏の、実践だったのか?或いは、単なる自殺に過ぎないのか…。しかし結局西行には、そのいずれでもなかったと、見える。かと言って、尤もらしく言い広められている如くに、汚濁した現実社会に対する抗議・批難を意図する、一種の 諌死 であると解する説にも、俄かには賛成し兼ねるのだ。 聖がその様な死を選んだのは、勿論彼自身の意志だった筈。そして、確かにその意志の中には、対世間的な、働き掛けの意図が見て取れる。詰り、己の尊い生命を的にした、芝居気たっぷりな或る訴えの仕草が、覗える。その訴えは、世を捨て、世に捨てられた聖が、長年に亘る厳しい修業の果てに掴み取った、何かである。が、その何かを、毎日の生活に追われ、現実に密着し、拘泥し切っている俗人達に伝達し、理解を迫る事自体に、大きな無理がある。その自明な理を、聖が見落としていたとは、判定し難い。聖は世俗に伝え得る事柄を、ごく自然に伝えようと図ったに過ぎまい。 その死が結果として、多くの男女の異常な関心を集め、強い感銘を与えたとすれば、それは聖の死に反応した各個人の、心の問題である。聖がその死を傍観した群衆の心の中で、様々な死を死んだ事も事実ならば、彼自身としては、必然の死を、従って一種の自然死を遂げたことも、又事実なのではないか…。西行には、どうしてもそんな風に、思えてならない。 と、すれば、その勝手な空想が事実だと仮定すれば、かの聖も、美福門院とは又違った意味に於いて、西行の心底に生き続ける権利を、確保したのだと言えよう。 現実の蒼穹の涯てに在って、美しい恒久の光を、地上に投射している星々の如く、彼等も西行の心の夜空に澄み反り、冴え冴えとした輝きを発することを止めない、麗しい星達であった。人は実に、斯かる方法に依って、永遠の生を生き、永遠の生命に参画する事が、許されていたのである。 六時半ころ、春美がベッドから起き出して来て、夫の書斎を覗き、こんな朝早くから起きて、読書している姿を発見して、何か珍しい物でも見るように、不思議そうな顔をした。 その半分寝惚けたような、妻の化粧していない素顔が、彼の朦朧とした意識を、少ししゃんとさせた。― 彼は、ショックを受けたのだ。別に妻を人並み外れた「美人」だと、錯覚していたわけではないが、今朝の妻の寝くたれ顔は、醜怪であった。それとも、常日頃から見慣れている筈の、女房の顔を、醜怪だと感じた彼の方が、やはり何処かに異常を来たしていると、考えるべきなのか…。その様に一応は、反省を加えてみたのだが、その際のショックの名残りは、バスに乗ってからも、まだ尾を引いていた。