神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 百十五 回 目 読み聞かせ会での台本の候補として、一回目は「藁しべ長者」を取り上げます。野辺地地方の方言が一番の 売り なのですが、残念ながら私はこの方言を喋ることができません。方言表現に関しては、追々、町の人達と相談の上で考えることとして、ここでは普通に標準語的な表記のままで、我慢して頂くより仕方がありません。どうぞ、お許しを願います。 「ワラ一本の億万長者」(仮題) 昔のことです。貧乏な男がいました。男は、何とかしてお金持ちになりたいと、近くの神社にお参りして、神様に心からお願いしました。すると、夢の中で神様が現れ、明日の朝起きてから最初に手にした物を、大切にして旅に出るように、男にお告げをしたのでした。 男は家を出て直ぐに、石に躓いて転び、その時に道に落ちていたワラを一本、偶然に手にしました。男は夢の中のお告げの通りに、そのワラを手に持って、旅に出たのです。 すると野原の所で、アブがブンブンとうるさく付きまとって、来たのです。最初、男は手でアブを払い除けていたのですが、このアブがなかなかしつこいのです。それで男は、そのアブを捕まえて、ワラの先にくくりつけ、また道を進んで行きました。すると道端で泣いていた子供が、その藁に結ばれたアブが欲しいと、母親にせがむのでした。 母親は駄々っ子の為に、持っていたミカンと交換に、ワラに結んだアブを欲しいと、男に声を掛けたのです。男は始め嫌だと断ったのです。神様が大事にしろと言ったのを、忘れてはいなかったからです。しかし、泣きじゃくっている小さな子供を見ると、つい気の毒になって母親の申し出を、断りきれずに、差し出されたミカンと交換に、藁と虻を子供に与えたのです。 男が旅を続けていくと、商人が喉の渇きに苦しんでいました。気の優しい男は、手にしていた蜜柑をその商人に自分の方から、与えたのです。喜んだ商人は、お礼にと高価な反物を、男にくれたのでした。思いがけなく高価な布地の反物を、自分の物にした男は、喜んで道を進みます。 すると、一人の侍に出会った。その侍は乗っていた愛馬が急病で倒れ、お供にその馬の始末を任せて、先を急がなくてはいけなかった。お供がその病気の馬の処置に困っていたので、男は自分の反物と病気の馬を、交換しようと提案した。お供は大喜びで、反物を手にして、主人の後を追って行った。 男が倒れていた馬に水を飲ませると、馬はたちまちに元気を取り戻していた。馬に跨った男が進んで行くと、大きな屋敷に、行き当たった。ちょうど旅に出かけようとしていた屋敷の主人は、男にその屋敷の留守を頼み、代わりに馬を借りたいと申し出た。主人は三年経っても自分が帰って来なかったら、この屋敷を譲ると、男に言い出した。男は承諾し、主人は馬に乗って旅に出発した。 ― 三年経っても、五年たっても、主人が旅から帰って来ることは、無かった。 こうして、男は裕福な暮らしを手に入れる事が、出来たのでした。めでたし、めでたし。 以上が「藁しべ長者」の粗筋ですが、なかなか奥の深い、含蓄に富んだ内容であるのに、改めて、ビックリさせられました。「源氏物語の現代語訳」の場合でも、そうでしたが、私の願いはただ一つで、今の若者達に古典への関心を、少しでも多くの人に持ってもらいたい、との切なる願いから。しかし、十年やってみて、一番得をしているのはほかならぬ、この私自身だった事に気づかされ、一驚して居るのでした、全く。 つまり、だれかの為にすることは、直接に自分自身の為に成る。それも、直接に自己の利益を図ってする行為・行動よりも、より本人の利益になる方式によって。実に、不思議と感じざるを得ないようですが、これ、考えるまでもなく 当たり前の事 でありました。私たちは例外なく、絶対者の大きな、大きな愛情の中に、包まれている存在だからなのですよね。これに容易く気づかないのが、私を典型とする、凡俗の浅ましさなのでしょう、きっと。