神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 百二十四 回 目 前回は、私・草加の爺が提唱する「四つの倖せ」について、簡単に御説明致しました。人は、私たちは不幸に成りようが無い、完璧なまでの条件を身に備えて、この世に誕生してきている。 無一物、丸裸、裸一貫で生まれ出て、そして、やがては裸の元の姿に還って、あの世にたったひとりで、孤独に、旅立っていく。 ー その様に教えられ、誰もがその様に考えて、毛程の疑いも持たずにいる。 そのような考えを、誤謬だとは申しません。それで、私達皆が幸せになれるのでしたら…。もし、そうでないなら、私の主張する如く、考えてくださいな、どうぞ。 つまり、私たちは徹頭徹尾、「幸福の衣にやさしく包まれている存在なのだ」と。生まれる前も、そしてこの世に生まれてからも、更には、あの世と仮に呼んでおきましょうか、彼岸に行った際にも終始、慈悲心に溢れる 絶対者の慈しみの心 に抱かれ続けている。永遠に…。 古代の日本人は無心のうちに、純朴に、それを信じて疑わなかった。だから、心底から 神 の存在を信じ、それを全身全霊で尊崇した。また、衷心からの感謝の念を、片時も忘れることがなかった。それが、美しい緑と、美しい四海とに囲まれた、黄金の国・ジパングの在り方、真相だったので有りますよ、実に。 今回は、一休さんの頓智噺(とんちばなし)を取り上げてみます。 「 一休の 糞(くそ)となれ 」 司会者:はーい、こんにちは。読み聞かせの会です。今日は、皆さん方とご一緒に、楽しく過ごしたい と思います。どうぞ宜しくお願いいたします。早速ですが、みんなの人気者・ホタテガーイとコ カブちゃんをご紹介いたします。 ホタテガーイ:今日(こんにち)は、皆さん。宜しくお願います。 コカブ:今日は、私が美人のコカブです。仲良くしてね。 司会者:皆さんは、一休さんのお話を聞いたことがありますか?今日は、その代表的な 頓智 の お話を、この三人で協力してご紹介しますよ。 むかしむかし、一休さんという とんち で評判の小僧さんがいました。 一休さんがまだ小さい頃、始めて修行をしていたお寺の和尚さんは、とても意地が悪く、 その上に けちん坊 でした。 おまけにお寺では食べてはいけない、塩ジャケをお味噌汁の中に煮込んでは、「ああ、旨い。 体が温まるのう」と、平気で食べているのです。当然に、一休さんたち小僧には、一切れも分けて はくれません。 しかも、塩ザケを食べる時の和尚さんの言葉が、とても気取っているのです。 「 これなる、塩ザケよ、そなたは枯れた木と同じ、いくら助けたいと思うても、今更に生きて 海を泳ぐことなど出来ぬ。よって、このわしに食べられ、安らかに極楽(ごくらく)へまいられよ 」 それを聞いた一休さんは、「ふん、自分で料理しておきながら、何が極楽だ」と、他の小僧さん 達と腹を立てていました。 ある日の事。一休さんは朝のお務めを済ませると、魚屋に走って行って、大きなコイを一匹 買ってきました。 そしてお寺に戻ると、まな板と包丁を取り出して、鍋を竈(かまど)にかけたのです。それを見た 和尚さんは吃驚して言いました。 「一休!お前、そのコイを一体どうするつもりなのだ…」 「はい、このコイを食べます。この前、和尚さんに教えられたお経を唱えますので、聞いていてく ださい」 「お前、正気か?」 「はい、正気でございますとも」と、一休さんは少しも慌てずに、コイをまな板の上に乗せると、 お経を唱え始めました。「 これなる、生きコイよ。そなたは、この一休に食べられて、くそと なれ、くそとなれ 」 唱え終わると、一休さんはコイを切り身にして、鍋に放り込みました。 「むむっ。……糞となれ、か」、和尚さんは今まで、塩鮭に向かって「極楽に参られよ」と 言っていたのが、恥ずかしくなってしまったのです。糞となれ、糞となれ―と、本心を言った 小さな一休さんに、してやられたと思ったのです。 ( こいつはきっと、大物になるぞ。わしの所ではなく、もっと良い和尚の所に、預けると するか ) 「それでは、頂きます」 一休さんは、和尚さんの顔色をうかがうことなく、他の小僧さん達と一緒に、鯉こくを 美味しそうにパクパクと食べましたとさ。おしまい。(鯉こくとは、コイを輪切りにして煮込んだ味噌汁のことです) 昔の小僧さんたちは、大抵「口減らし」と言って、貧乏な家の子供が経済的な貧しさの故に、比較的余裕のあるお寺に預けられた。ですから、小僧さん達は我儘などは絶対に許されない、非常に弱い立場に立たされていた。 現在でも、児童虐待などの例がニュースなどの報道で、流されていますので、法律の保護を完全に受けている、比較的恵まれた子供たちばかりとは、必ずしも言えないのですが、例えば、私の目下お世話になっている学習塾に通っている、大多数の生徒達は、お坊ちゃん・お嬢ちゃん的な存在が大半ですよ。要するに、甘やかされ過ぎている。 子供は私が東京下町の ガキ大将 だった頃と少しも変わっていない。やはり教育し直さなければいけないのは親たち、大人たちなのだ、そう確信を強めている毎日なのですが…。 そうは言いながら、実は「親の一途な愛情」ほど、素晴らしいものは無い。そう感嘆を続けているのも、又、事実であります。盲目的な溺愛ですら、子供達は「正しい方向」に向けて、成長を遂げる原動力にはなっている、確かに。それもこれも、天の配剤の御蔭なのでしょう、きっと。