神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 二百四十八 回 目 今回は、「法華経」そのものについて、可能な限りわかりやすく、平易に解説したいと考えています。お断りしておきますが、私は仏教の専門の学者ではありませんし、専門の仏教徒・僧侶でもありません。哲学的な思考を愛する、アマチュアの一人として、ごくオーソドックスな見解を読者と共に、研究・考察してみたい。そう考えて居りますので、当然に参考にした文献はございますが、ここでは一応それを省いてご説明させていただきます。 さて、前半部で 宇宙の統一的真理( 一乗妙法・いちじょうみょうほう ) を明らかにしている。後半部では 久遠・くおん の人格的生命・久遠本佛・ほんぶつ を明らかにしている。更にもう一つ加える。それは、現実の人間的活動・菩薩行道・ぼさつぎょうどう が強調される部分である。 ―― 先回りして申し上げれば、野辺地での私が発起人として始めようと計画しているプロジェクトは、正しくこの 菩薩行道 に分類されるべき行為なのです。 そして、更に先回りして 私見・草加の爺の立場 を御披露致しますと、私たちは全員が、菩薩的な可能性を根本の所で具備し、潜在的な能力と資格とを秘めた 非常な善意の萌芽としての生命体 としてこの世に誕生して来ている。このように断定して憚らない、金輪際、妥協したり、説を曲げたりは致さない。くどいようですが、倖せへの近道であることだけは間違いがない。 それでは、順番に「法華経」の概略を説明致します。 釈迦佛は、まず真理の広大・無量であることを解き明かし、みずから、その中に浸って、瞑想をする。ついで、眉間の白毫(びゃくごう)より光を放ち、くまなく宇宙万有を照らし出す。これは、佛が最高・究極の教えを解き明かす前触れであって、遥かな過去においても、同様の事が有ったことを物語りつつ、参集者たちは佛の教えを待ち望む。 次に、佛は瞑想から立ち上がり、初めに、宇宙の事物の真相(=諸法実相・しょほうじっそう)について説明をする。 全てのものは、相(=外なる様相)・性(しよう、=内なる性質)・体(=外相、内性を合わせた全 体)・力(りき、=潜在的な能力)・作(=顕在的な作用)・因(=ものの生じ、動く直接的原因)・縁(=因を助ける間接的原因、条件)・果(=因縁によって生じた結果)・報(=結果が事実となって外に現れ出ること)・本末究竟等(ほんまつくきょうとう、=第一の相から、第九の報まで関係し合い、一貫している事をいう)の、十個の仕方で生じ、又、動くのだと説く。 以上を 十如是・じゅうにょぜ と呼び、古来、ものの存在・生起のカテゴリーとして重視されている。 つまり、この 十如是 が本末一貫した法として、もろもろの事物にそなわり、それぞれを支える真理となっている。 逆に言えば、諸々の事物、ないし、それを支える真理(諸法)の具体的なあり方が、十如是だということになる。これが即ち、諸法実相である。 更に言えば、諸々の事物や諸法は、それぞれ独立・固定したものではなく(無我・むが、空・くう)、又相互に関係し合って(相依・そうえ、縁起・えんぎ)、全体で一を形成している。 十如是について言えば、Aの持つ十如是とBの持つ十如是とが関係し合っており、更に、C , D , E …… のそれぞれの十如是と関係し合っている。この様な関係性は相互に無限に影響を及ぼし合いながら、遂には 宇宙的な一つの大法 にまで至りつく。 この様な様相を指して、「法華経」では一乗妙法・いちじょうみょうほう と呼ぶ。一般的に表現すれば、宇宙の統一的真理である。それは、最高・絶対の真理である故に、妙法と言い、無上道と称し、諸物・諸法を統合する乗り物として、一乗とか、一佛乗とか呼ぶ。これが又、佛の最高・究極の教えである。 佛は、それまで人々の機根(仏の教えを聞いて働き始める、こころの能力のこと)や立場に応じて二乗とか三乗とか、種々に真理や教えを説いてきたが、今やここに、それらを統合・統一した最高・絶対の真理が説き明かされる。佛の究極の目的は、実はここにこそあったのだ。 これに関しては、少し歴史的な解説が必要でしょう。 釈迦当時、或いは、以後の仏教徒には、釈迦の教えを耳にして、悟りへと向かう者(=声聞・しょうもん)と、独りで人生・自然の因縁生滅する姿を観察して、悟りへと向かう者(=独覚・どくかく、縁覚・えんがく)の二種のタイプ(二乗)が挙げられるが、そのいずれも人生の無常・空・くう ということから、ニヒリズムに陥り、生きる意義を失ってしまった。 そこで、西暦前後に到って、現実の中で真理実践に励むグループ(菩薩・ぼさつ)が立ち上がった。そして彼等は仏教改革運動を起こした。そうして、二乗者(小乗仏教徒)の思想を、真理への小さな乗り物(小乗)と評し、みずからを大乗と称した。特に、二乗者のニヒリズムを強く批判し、彼等は佛になる可能性を亡くしてしまった、とさえ非難した。 釈迦の説いた人生の無常・空ということは、そのような虚無的な考え方に落着するものではなく、実は虚空・こくう の如き 無限・絶対の世界 に導くことにあった。ひいては、人生の起伏に囚われて苦悩する心が解放され、大いなる喜びと生きる意義が、復活されるものであった。この道理を明らかにしようとしたのが、すなわち 大乗の菩薩 たちである。 大乗の菩薩たちは、まず 「 空 」 の原理的解明に努め、それを経典に編集した。かくして出来上がったものが 『 般若経・はんにゃぎょう 』 である。更に、「空」の積極的な表現が試みられ、「空」なるところ、そこに 統一的真理(一乗妙法) が見られるとしたのが、すなわち『 法華経 』である。 この統一的真理の樹立は又、統一的世界観、乃至、統一的人生観の確立ともなった。 中国天台宗の開祖・智顗(ちぎ、538~597)は、それを受けて 一念三千 という形に組織づけた。三千という数は次の様にして出てきたもの。―― 宇宙の諸存在は地獄から佛に至るまで十の階層(十界、悟りと迷いの視点から十種の境界を分けたもの。悟界は、仏界・菩薩ぼさつ界・縁覚えんがく界・声聞しょうもん界、迷界は、天上界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界を言う。そして、この十界は別々に存するのではなく、相関するものとして、十界のいちいちに又、十界が含まれる(十界互具・じゅっかいごぐ)。その意味では百界となる。 また、諸存在のそれぞれは、先の説明のごとくに、 十如是の法 によって支えられている。 このようにして、百界にこの 十如是 をかけると、千という数字が出てくる。 更には、一つの存在を取り上げてみると、主体(衆生世間)と、それを構成する物心五要素(五陰・ごおん世間)と環境(国土世間)の三つ(三種世間)が考えられる。この三世間を掛け合わせると、三千という数になるわけである。 要するに、「 一念三千 」とは、ミクロ(=極小、一念)の世界と マクロ(極大、三千)の世界とが統一的真理に貫かれて、相互に密接に関係し合いながら、渾然一体となっている様を、表現したものであり、更には、極微の 一念 に 三千 の全宇宙が包含され、三千の全宇宙に極微の一念が透徹している様相を、強調したものである。 次回も、この続きを行います。