神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 二百五十七 回 目 今回は又、台本候補として藤原正遠(しょうおん、浄秀寺前住職)の和歌を取り上げます。解説は抜きにして、取り敢えず原文をご紹介いたします。 あや雲の ながるる如く わがいのち 永遠(とわ)のいのちの 中をながるる 一息が 永遠(とわ)のいのちと 知らされて すべてのものが 輝きて見ゆ 来(こ)し方(かた)も 又行く方(かた)も 今日の日も 我は知らねど み運びのまま 煩悩を わがものとする 卑下慢(ひげまん)に 永(なが)くとどまり み仏を見ず 煩悩が 仏のわざと 知らされぬ 余るいのちを いとしみ生きむ 酔生夢死の ままでよろしき 安(やす)けさを いただきにけり 弥陀(みだ)のみ恵み いずれにも 行くべき道の 絶えたれば 口割り給う 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) 罪に泣く 人らを待ちて 下下(げげ)の国 大悲(だいひ)の弥陀は 待ち給うなり たのめとは 助かる縁のなき身ぞと おしえて救う 弥陀のよび声 そのままを こちらで聞けば 自力なり まかせまつれば まことそのまま 百花(ひゃっか)みな 香りあるごと 人の世の 人の仕草(しぐさ)の みな香りあり 不可思議と 思うは思議なり 自力なり まかせまつれば まこと不可思議 山も川も 鳥もけものも 法の邦(くに) 一如(いちじょ)に見えて 心ほのぼの 天国に 生まるることを あきらめし 我は下国(げこく)に 安らけくあり 分別が 分別をして 出離(しゅつり)なし 無分別智の 弥陀のよび声 空念仏(からねんぶつ) まことによろし いつの日か 空(から)は棄(す)たりて まことは残る 救われむと するわざやめて み光の 中にすべてが あるを知るべし さまざまの 死に方あれど すべてみな 弥陀のいのちの 電源のわざ 無量寿の 国より生まれ 無量寿の 弥陀のみ国に 帰り給えり 日ねもすを 床に臥すとも 三世十方(さんぜじゅっぽう) 仏の邦(くに)に遊ぶ君かも (松崎姉に) 無量寿の いのちの一つと 知らされて 今は安けし われも宇宙も 専門的な知識が皆無でも、素直に心に響いて来る、素晴らしい和歌ばかりだと思いますが、如何? 私は仏教徒でも無く、無論その中の一つの宗派に属しては居りませんが、仏教用語を取り払って、この作者の精神の在りどころ、だけを問題にして、自分流に解釈するならば藤原氏の心境に大賛成です。つまり、全体、絶対者、天、神などと呼び習わした姿なき存在に「絶対帰依」、つまり無条件で「任せきる」ことが出来さえすれば、その人は自分自身を全肯定出来るし、この世に居ながらにして天国の安らぎを得るあろうと、確信するからであります。 結局、藤原氏と同じ心境に到達するのが、最高なのですが、中々簡単には実現不可能です。事実、氏も若年の頃、自己の死、つまり自分がいつの日かこの世から消えてなくなる事実に、強く「脅迫」され続けたと言います。 自力ではなく、無限に大きな存在・真の絶対者に全的に身を委ねることが出来た瞬間に、真実の覚醒が訪れる…。私・草加の爺流の表現をすればと言う事。 結論を申し上げれば、それ以外に人間として正しく且つ善く生きる道はないのですが、凡夫たる身は、数多(あまた)の煩悩の鬼に小突き回されて、一生を終えてしまう事の方が圧倒的に多いのでありましょう。 俺が俺が、私が、私が、などと小我・エゴを前面に押したてて、みんなして角を突き合わせている。それが人間社会の偽らざる真相でありましょう。衝突や激しい葛藤は必然でありますから、弱肉強食の原始状態が、いつまで経っても解消されずに「勝った者が正義」であるとの、永遠の不文律が生き続ける。 どうしても、部分である 小我 を否定するモメントが必須であり、 全体 の愛情に、所謂「限りなき慈愛・慈悲心」に救い取られる必要が、ある。断じてある。