神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 二百六十八 回 目 今回は、心に響く言葉を書き留めます。 人間関係では、好き、嫌い の感情を出し過ぎてはいけない。善と悪、賢と愚 とを問わず、みな受け入れて行くだけの、包容力を持ちたいもの ( ―― 菜根譚、洪 自誠 著の名言集 より ) 成功は 常に 苦心の日にある。敗事(失敗)は 多く 得意の時に、原因があることを、覚えておくのがよい。 他人の過失を咎める者は、心を動かすたびごとに、それが全て 自分自身を傷つける刃物と変わる事を、銘記する必要がある。 他人が富の力を誇示する時に、私は 仁(優しさ)の徳 で以て対抗したい。彼が名誉を切り札と考える所で、私の方は 正しい道 で対抗出来るように心がけたい。 太陽が沈んでしまった後、それでも尚、夕映は美しく輝いている。だから、人生の晩年に当たって、立派な人生を全うしたいと考える者は、精神を百倍にも奮い立たせて、正しく生きるようにすべきである。 美味しい食べ物は、自分の分を十分の三くらいに減らして、残りを相手に譲ってやる。 ―― この様な心がけこそは、人生を生きる上で一つの、非常に安らかにして楽しい方法であるから。 人目につく所で、禍を受たくないと思うのなら、先ず人目につかない所で、罪を犯さない心がけが肝要でありましょう。 人として世の中を生きる上で大切なこと、それは自分の方から一歩を相手に譲ること。これが何にも増して勝れた道である。この一歩を譲る精神が、そのままで次の一歩を進める根本となるので…。 幸福というものは、求めようとして得られるものではない。常に 喜びの気持 を持って暮らすこと。これこそが 幸福を呼び込む道 であると知れ。 仮に悪事を働いたとしても、人に知られる事を恐れているのなら、まだ見所はある。せっかく善行を積んでも早く人に知られたいと、願うようでは、既に悪の芽を宿している。 自分を反省する者にとっては、体験する事の全てが、自分を向上させる栄養剤となる。 静寂な環境の中で、得られる心の静かさは、本物の静かさではない。活動の中で、心の静かさを保ってこそ、最高の在り方を体得した者と言えよう。 この世は決して、汚れてもいないし、苦しみの海でもない。そうさせているのは、自分自身の 心 なのだ。 他人の過ちには 寛大 であれ。しかし、自分の過ちに対しては 厳しく なければならない。自分の苦しみには、歯を食いしばれ。だが、他人の苦しみを、見過ごしてはならない。 さりげなく、表現されてはいるが、凡人には言えない奥深い至言ばかりが並んでいる。しかも、心がけ次第では誰もが人生の達人の如く、行動することは可能なのですよ。思わず知らず「うーん」と、唸ってしまう。己を磨くのは、世のためであり、人のためである。情けは他人の為ならず。回り回ってこの自分に帰ってくる、きっと。自己に厳しく、他者には優しく。この謙譲と謙虚と、自己練磨の厳しさとは、一体何に由来するのか…? 人間を人間たらしめている絶対者、天に対する無条件の信頼・感謝。真の信仰心に拠るとしか言えないでしょう。忍耐する精神、辛抱する心の涵養こそ、現代に生きる私たちが肝に銘じて忘れてはならないものでしょうね、恐らくは。