神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 二百九十二 回 目 セリフ劇形式の朗読台本の試作 ― 「 和歌を 楽しく 語る 」 登場人物:名歌の作者たち、鑑賞する男と女 男の作者「 月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身一つは もとの身にして 」 鑑賞する男「 月はあの時のあの月ではないだろうか…、春はあの熱い恋に燃えた季節の春では無いのだろうか…、取り残された自分だけは、元の儘の自分だと言うのに」 鑑賞者の女「初句は字余りですが、唐突な出だしで胸中に沸騰する激情を先ず提示する、技巧を超えた超絶技巧を感じさせます」 男「月は夜の世界の女王、春は恋の季節に一番ふさわしい時期。あらぬ、ならぬ、と不在を強く表現するフレイズを繰り返すことで、今、この場に恋の相手である素晴らしい女性の居ないことの嘆きが、クローズアップ手法で表現されている」 女「女性は高貴で限りなく美しい、魅力あふれる恋人」 男「男性もとびぬけて気品ある貴公子」 女「詩歌の鑑賞の際に、作者の意図や作意などが問題にされますが」 男「鑑賞とはもう一つの創作だとも言える。和歌の意味内容が深まるような 誤読・解釈 は極限まで許されるべきでしょうね。名歌にはとりわけその種の誤読を誘っているような、不思議な魅力が秘められている」 女の作者「 花の色は 移りにけりな 徒に わが身よにふり ながめせしまに 」 女「美しい女性が屋外に咲く、美しい花を眺めている。ぼーつと深い物思いに耽りながら」男「季節は春の長雨の頃。しとしとと、小止みなく降り注ぐ雨粒に打たれて、あんなにも可憐に愛らしかった美しい花は、今はもう色褪せて盛りの頃の魅力の、大半が失われてしまっている」 男「女は、あの花は自分だと、感じる。恋し、愛する最愛の人に逢えずに、ただ無駄な時間を悶々として過ごしただけ。得恋という実を決して結ぶこともできずに、このままであたら惜しい花の命を終えてしまうのだろうか、哀しくて、淋しくて、やるせない…」 女「作者が絶世の美女であるところが実に切ないですね」 男の作者「 嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる 我が泪かな 」 男「名月を眺めていると、何故か自然に涙が流れ落ちてしまった。秋の満月は本当に美しい。ただうっとりと見入ってしまう、魅せられてしまう。そして、涙。月のせいでは断じてない。けれども、私が流した涙は名月のせいなのだ。そう何だか涙が言いたそうな風情ではあるよ」 女「鏡の様な澄み切った月の面に、いつも心に思っている恋しいお方の美しい面影が、何処からともなく浮かんできて、恋しい、切ない感情が込み上げた。それだけで、月には何の罪科も無いのにねえ」 男「芯が強く、豪気に見える男性ほど、涙もろい一面を有している」 女「なかなか参考になる男性心理の解説ですね」 男の作者「 今はただ 思ひたえなむ とばかりを 人づてならで 言うよしもがな 」 女「こうなった今は、もうあなたへのこの火の如くに燃え盛って、私の心を焦がし続けて来た恋の火を、自らの手で消し止めて、跡かたもなく消滅させてしまいましょう。とは言ったもののそのような芸当が本当にこの自分に、出来る物なのかどうか、心もとない限りではある…」 男「真実に惚れた心と言うものは、男に限らず、女性でも同様だろうと想像されますが、本当に、実に女々しく、諦めが悪く、何時までも尾を引いて、だらだらと、連綿と終わる時が無いとまで思われる。しかし、絶望だと分かったとき、せめて恋の相手に直接に、たとえ強がりだけ、言葉の上だけでも、ダイレクトに伝える手段が残されていたならば…」 女「人伝(ひとづて)、つまり誰か人を介してでなくては、それさえも叶わない」 男「ひたすら、ただ逢いたくて仕方がないのですよ。それから後のことは、考えられもしない。でも言葉の上では最後の強がりを、表明せずにはいられない、未練、残念、哀れ、無惨…」 女の作者「 めぐりあひて 見てやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな 」 男「恋い焦がれて、その熱い想いという火を胸に抱き、心の底に秘めて、秘めて、それでも尚且密かに諦めかけていた自分の命以上に大切な、憧れの、眩しいお方。その理想の男性と夢の様な逢瀬を遂げることが出来た。あの日、あの時、あの忘我の瞬間に続く、惑溺の時間…。しかし気が付けばあの人はもういない。忽然として姿を消してしまっていた。実にあっけなく、肌を直接に重ね合わせたという実感すら、残して呉れずに…。今、今宵、夜空に美しく煌々と光り輝いている名月の如き君よ。そして、悪夢の如き雲の存在が永遠に取り除くことが出来ない、邪悪な障害物が只でさえ二人の仲を無情に遮っている空間に加えて、私にこれ以上生きる希望さえ、冷たく仮借なく奪い去るばかり」 女「何か、空腹時に銘酒を頂いた時の心持に似て、強烈な陶酔感に襲われますが、恋とは、男女の強く惹かれ合う感情、激情の様は一種激烈な 酩酊感 を齎さずにはおきませんね」 男「徒に為すな恋、と昔の人は忠告していますが、常識のレベルから見れば 狂気の沙汰 という形容がまさにぴったりとくる、実に空恐ろしい激情の坩堝と、称さないわけには行きません」 男の作者「 君がため 惜しからざりし 命さえ 長くもがなと 思ひけるかな 」 男「実にストレートに、自分の感情を吐露したもの。余計な解釈などが入り込む余地がなくなる。非常に俗な話を持ち込みましょうか。昭和の歌謡曲にこれとは真逆な 男の心 を謡ったものがあります。あばよ東京 ― と言う題名ですが、恋と言うものは時代を越え、得恋であるか失恋であるかを問わず、命に密接に係わる一生の重大事になり得る」 女「恋に破れた心、真実に惚れた末のハートブレイク…。男女を問わず、文字通りに心臓が大きな音を立てて破裂する。仇や疎かに恋をしてはいけない。恋愛の本質は猛烈な毒であり、死病である。そう言えそうですね」 男「クールに醒めて、敢えて意見を言えばですが、誰でもが好んでこの毒を仰ぎたいと、待ち望んでいる。桑原、くわばら!」 女「本当に、そうですね」女 と 男「(笑い)」