神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 三百七 回 目 今回は、自然とメッセージというテーマで書いてみます。 ご承知の如く、自然には「声」が有りませんので、所謂「声なき声」のメッセージという事に当然の様になります。で、必然的にその声に耳を傾ける 人間の力量 が問われる。自然が声なき声で以って伝えようと 企図 しているメッセージに、真剣に耳を傾ける、その真剣度合が問題になるわけです、実際。 何故なら、そのメッセージは、声どころか、色も形も匂いも、触感も人の持つセンサーの機能を遥かに超越した広大にして無辺な、際限もない、途方もない「重要極まりない」メッセージを絶えず、止めどなく、幾度となく度外れな回数、私たちに発し続けて止まないから、でありますね。 これは、分かる人には解る、といった性質のものでありまして、私・草加の爺は丁度今、言わば神懸かり、乃至は 神憑り の状態でこの文章を書いている。否、書かされているから、そうなるのでありますので、何のことか皆目見当もつかない、とお感じの御方がいらっしゃいましたら、これは無視して、つまりスルーしていただいて結構です。申し添えますが、これは私が偉そうに、もしくは傲慢な態度で発言しているからではありません。本質的に そう言った性格の物言い だからなのです、はい。 さて、自然の発しているメッセージに話を戻しましょう。私たち人間も自然の一部でありますので、個々人が本質的に固有のメッセージを保有して、無自覚にそれを発している。発し続けている。それも無限に近い膨大な量のそれを。 数学の事を頭に描いてみて下さい。無限にも、本来は較べようがない無限にも大小があって、どちらが大きいかはどちらがどちらを「含む」かによって、大小が分かる。例えて言うならば、整数の中には偶数と奇数がありますから、偶数も奇数も整数に含まれますので、無限である整数の方が、同じく無限である偶数・奇数より大きい、と言ったように。 無限ですから、散漫で恣意的な眼には、混乱と不規則な事象の羅列のようにしか、映らないのですが、緻密で厳密な、そして繊細かつデリケートな緊密さが、或る視点を獲得した者には鮮明に浮かび上がって確定的なイメージを、映像を感じさせる。その辺の精妙さ、見事さは言語に絶して美しい、殆ど醜悪なまでに…。 その一つと言ってよいのが、曼荼羅・マンダラでありましょうか。仏教や最近の深層心理学が注目する人類の魂を透して見た、自然のメッセージの原風景。 また身近な所では、私たち人間の体の仕組み。これも見事な造りの「小宇宙・無限空間」の見本のようなものではありませんか。自然は、飽くこともなくこの小宇宙の数々を次々と創造して、倦む事が無い。 私たちにはそれぞれにあらかじめ定められた「役割」がある。ですから、自由に、勝手気ままに、生きることなど、本来は許されていない。そのことの意味合いを、よくよく、篤と考えてみる必要がある。間違いなく、なのでありますよ。 キリスト教の方では「初めに言葉があった」といいますが、言葉をメッセージと言い換えてみてもよい。言っていることは同じでありましょうから、結局は。 熱い、熱い、思い・想いという火・炎が赤々と燃え立ったし、いま尚赤く灼熱して燃え滾っている。そしてその火は未来永劫に亘って燃え続けることを、止めないでありましょう。 信教の自由という事が言われます。一見して尤もと思われる主張の様に思われますが、ここで私は思い切って断言してみます。そんな自由などは、体裁のよい上辺だけのもの、それ故に嘘偽りだと。 信ずるに値する対象をこそ信じなければいけないのだ。それはこの世でも、無論過去世でも、当然にあの世でも、唯一無二のもので、ただの一つしかない。それ故に「宗教」、つまり宗とする教えなのだと。 それは大切なメッセージを発し続けている自然の背後に、或いはその遥かな彼方に、確として存在し自然を的確に支えている。 この事実は、乃至は、真実は直観力によってしか私たち人間には把握・感受することは許されない。まして合理的な、余りに合理的に過ぎる科学の常識をはるかに超越している。 私は何も殊更に誇張した、或いは、持って回った、奥歯に何か物の挟まった言い方をしているわけでは、ありません、けっして。 ただ人間というものの限界を素直に認め、真っ正直になろう。すると不思議な事に「 真実の 不思 議 」が何処からともなく、その在りのままの姿を浮かび上がらせて来る。その事実を、真の実在に関して述べようとしているだけにしか、過ぎない。お判りでしょうか? これを仏性と呼んでもよい。私たちは仏という全体の、微小ではあっても、有難い事に一部なのですから。全体との関係・関連を素直に、ただありのままに認識すればよい。 妙好人と呼ばれる人々がいます。そのほとんどが無学であり、無名な庶民の典型のような人。その一人がこんな言葉を発しています。「親様の家なのだから、遠慮や余計な気遣いなどいらない。安心して暮らそう」と。そして彼は、それを事もなく実行して見せた。 これを私は、否、周囲にいた人々は驚嘆、讃嘆した。偉人や哲人も及ばない見事の一語に尽きる、素晴らしい生き方ではありませんか…。 こうした達人の生き方、暮らし方が、万人に対して開かれている。これは実に有難く、勿体無く、驚異の一語のみ。外に言葉を失ってしまう。