神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 三百十七 回 目 私の俳優論の三回目です。 俳優とはそもそも何者たらんと欲する者なのか? 試みに辞書を引いてみました。手元にあった国語の辞書には、「演劇・映画などで、監督の指図に従って演技する事を職業とする人。役者」とありました。実に平易で、分かりやすい説明だと思います。私の考えている俳優はこれとは全く違う。とも言えるし、殆ど文字の上では同じだとも、言い得る。ただし、監督とは即ち「神」であると、ただし書きが付きますが。その心は、と言いますと、現在ただいまの私の心境からしますと、従来の世人の常識的な俳優観をとりあえず一新して頂きたい思いが、頻りだからなのですね。とにかく、世間に大手を振って通用している「誤った」俳優理解をば「悔い、改めて」欲しい。その願いで一杯なのですよ、とにもかくにも。 何故ならば、これまでの俳優観では私たちがこれから目指さなければならない、理想のセリフ劇が著しく阻害・妨害されてしまう懼れが、大きいからであります、はい。それ以外には他意は全く御座いません。そもそも、何をどう考えようと「まったくの自由」なのでありますから、私たちの生きて在る自由主義社会では。 それはさておき、私・草加の爺が考えている俳優の資格や資質から、述べることに致しましょう。 よりよく生きようと欲する、素直な気立てのお人なら、誰でも俳優を目指す資格があるし、なお且つ努力を継続するならば、名優を目指すことも可能だし、指導の宜しきを得れば、誰もが名優になる資質さえ与えられている。間違いなく。そう主張し、いや、この際ですから、そう強く断言致します、断じて。 さて、結論から申し上げましょう。私の俳優の定義はこうです。「 俳優とは優しく、温かな心を護り育てて、適切な機会に、誰彼となく相手を選ぶことなく、魂の手を翳して患部を癒し、元気付ける能力を身に附けた者 」だと。つまり、こころ・ハート・精神・マインド・ソール・魂の癒し人、真実の意味での 心の救済者 なのだ、と。 それはとりもなおさず、私たち人間だと言う事を、まさしく意味しています。換言すれば、人間の名に値する正真正銘の人間でありさえすれば、誰もが適格者である。なぜなら、この世に生まれたそのこと自体が、選ばれたエリートであることの、紛れもない証明であるのだから。 あとは純粋に技術的なこと、テクニックの問題です。当然ですが生まれながらの天才もいれば、努力で大成する秀才型もいることでしょう。それは私たちの社会の他の分野を一渡り見渡してみれば、直ぐに納得のいくことですから、くどくどと私が今更らしく解説する必要もないことですね。 私が「独創」、「新機軸」として声を大にして申し上げたいことは、志さえ高く持てば、誰にでも有能な俳優としての才能を開花させることが、可能だという事実であります。そして、そういう魂のヒーラーとしての俳優を、そしてその中から名人俳優を志す人が一人でも多く出現する事を、期待したい。待望している、切に。 俳優としての訓練の始まりは、名文や名作を選択して音読をすることによって、自分自身の手で自らを元気付け、激励することからのスタートになります。いま自分が最も必要としているカタルシスを直感的に探り当て、自分に向けて適切な手当を施す。自分と言いましても、様々な状況が考えれれるし、周囲の環境や人々との色々な出会い方によってストレスの種類も、強弱も様々に変化している。その自己に適切に、程よいタイミングで対応する能力の涵養が、周囲の各種多様な悩みや困難を抱え込んだ人々の、心理状態を察知し、理解する準備となるのですから、或る意味では最も重要なヒーラーとしてのトレイニングになる筈。何事においても基礎や基本が大切だと言う、見本のような土台作りに当たります。 その意味で、適切な作品を選んで、程よく自己の精神内部に働き掛けるこの段階に、全ての要素が含まれていると心得て、真剣に、本気で取り組んで頂きたいもの。 自己とは何者か? この素朴な質問が、当初の予想を遥かに上回る難問を孕んでいる事実を知った時、私たちの大半が驚愕し、困惑すること必定なのですが、あなたの場合には如何でありましょうか…。 今は少しく先を急ぎますので、私の学び得た知識の一端を述べるに留めておきますよ。 自己の中には本来の自己と社会化された第二の自己が存在する。そしてまた視点を変えれば、意識出来る自分と無意識の自分とが区分される。つまり端的に言えば、「私」の中には 社会の縮図 が既にして「明瞭に」透けて見えている。もっと掘り下げれば父親からの遺伝子と母親経由のそれとが、複雑に絡み合って完全に一体化して在る。この面からも、私は現実社会を構成している因子から成る全く同等・同質の最小の単位であることが理解できます。 つまり、自己を深く掘り下げて究明することは、そのままで人間社会の解明に道を通じている。自己理解とは、そのままで人間全体を徹底解明する根本である。そういう結論になる、ならざるを得ない。 ところがであります、自分の事なら自分が一番よく知っている。そそっかしい人はとかくその様に勘違いして事を済ませてしまうのですが、さにはあらず。神は、人が自分の顔を直接には見られない様に、意図して作られている。そのように、私たちが直接に自己の本質部分を知り、把握することを拒絶されておられる。どうしたらよいのか? 昔の人は「人のふり見て、我がふり直せ」と心憎い教えを残しておいて下さっている。自分を見る目にはとかく間違いが多いので、他人がする事を我が事と理解して、素直に教訓として学びなさいよ。そう有難くも教え諭して下さった。 自分には、特に自己の欠点や怠惰には甘く、他人のする事には容易に粗(あら)や足りない点、醜い部分が目に飛び込んで来る。そして、ああでもない、こうでもない、などと様々にあげつらう。実に浅ましい限りの根性を持っているのが、自分・自己・吾・私の本体・正体である。心してその根性悪に、警戒の眼を緩めてはならない。そう厳しく戒めた言葉。 これを敷衍して行きますと、社会で起こっている出来事、世界中で行われている人々の様々な行動・行為のどれ一つを取り上げても、私たちと無関係で無縁な事象などは、一つもありませんよ。虐めも、交通事故も、テロも、異常気象さえもとはと言えば「私」から始まっている。少なくとも、心の中ではそう考える必要があり、自我の無意識な暴走を食い止める手段を、あらかじめ講じておきたい。そう念じ、期待するのは私・草加の爺ひとりでは恐らくありますまい。心ある人ならば、ということは誰しもが心底からそう願わずにはいられない。 が、しかし。現実はなるべくして、そうなっている。起こっている痛ましい悲劇は、起こるべくして起こっている。少なくとも、心の中ではそう心得なくてはいけない。短気は損気。安易で、短絡的な思考による「非現実的な」見かけの、或いは、見せかけの解決法に走ってはいけない。実際には、浅はかな考え方から、浅はかな行動・行為に走るケースが、世の中には驚くほどに多い。容易な解決策が見つかったと思った際には、それに直ぐ飛びつくような愚かな真似はやめて、胸に手を当てて熟思黙考する習慣を身に附けて頂きたい。老婆心ながらにそのように愚考致すものでありますね、いらぬお節介とは知りつつも。 そしてこの下り立った地平線、その水平な土壌から生まれたのが、ヒーラーとしての俳優という発想であり、伝統的な基盤に立脚した妙案・名案・名回答であった。 「源氏物語」という古典の名前は知っていても、その素晴らしい内容にまで踏み込んで理解している日本人は、残念ながら微々たる人数を数えるしかない。それが実情であります。宝の持ち腐れとは、実際このことを言うのではないかと、慨嘆されます、頻りに。 千年以上前の貴族社会でのお話です。この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることの なきを思へば(― この現世での私の人生は自分の思うがままに運んでいて、その様子はさながらに夜空に美しく輝いている名月の如くだ。僅かな不足さえもないのだから…)、と詠んだとされる藤原の道長同様、いや、それ以上に人としての栄耀栄華を極め尽くした、男性ヒーローがいました。男性も女性も、この世界に生きている人いう人が全員、例外なく憧れ強い羨望の眼差しを向けていたこの理想の人物の輝かしい人生が、表現仕様も無い深い悲しさの色に、色濃く彩られていた。こういった奇想天外これよりほかはないという、実に驚くべきストーリーなのですから。 柏木の巻で、主人公は自分が信頼し目を掛けていた青年貴公子から、一番若い妻を寝取られてしまう。そしてその事実を知りながら、周囲の手前で不義の子を我が子として胸に抱きかかえる。その瞬間に、自分が父帝に対して犯した大罪の、報いを強く意識させられる。「ああ、父帝は何もかも知って居られたのだ。知っていて今の私と同様に、私と藤壺の宮の不義密通の大罪を、黙って黙認されていたのだ」と気付く。父親と同じ立場に立って初めて、父帝の自分に向けた大きな愛情を改めて、実感すると同時に、若さのなさせた大罪とは言え、自分の犯した罪の大きさ深さに震え慄くヒーローなのだ。 もしこの古今に絶した傑作がなかったならば、誰がこの理想人物の心の地獄を、絶望的な孤独の苦しみをよく窺い知り得たでありましょうか…。 この人物にして、この様な心の苦しみでありますから、われわれ凡人の全てが様々な苦しみに喘ぎ悲鳴を挙げるのは、いわば当たり前なのだと、妙な安堵感に捉えられたりするから、不思議です、実際。 「源氏物語」という古典は何も私の為に、魂のヒーラーとしての「俳優」を創設するに際して、有力な材料として存在しているわけでは全くありませんが、人間存在の根本を考察する上では、非常に参考になる。人間の心の在り方を手に取るようにまざまざと、明瞭明確に、しかも極めてリアルな筆致で描写して示してくれている。( 古今に絶する不朽の名著であります故、いずれは私がセリフ劇の実例としてその触りの部分のエッセンスを、ご紹介することになろうかとも思いますが、いまはこれだけにとどめておきましょう ) 無数の悩み、様々な煩悩、各種のフラストレーション(欲求不満)、無限に近いストレスの数々。人生を生きるということは、時々刻々とこれらの放置しておくと私たちの心身に、悪影響を齎すに相違ない環境と事態に対して、適切な対処法を考案し、善処する必要に常に迫られていることを意味しています。 放置せずに適切に対応すれば事なきを得ることは分かっていても、四六時中のことですから、なかなか思うにまかせないのが実情でありましょう。 病気の場合にも早期の治療が肝要でありますが、ストレス由来の障害にも同様のことが言える。しかし、当然ながら「未病」ですから医師という専門家がいない。各自が、各種の方法で個別に対処するより仕方がない。従って、結果としてはストレスが増え続ける。悪循環の連続であります。 ここに、正統なセリフ劇の確立という発想が成立し、その為の有能な俳優を新たに養成する必然が、生まれるのです。