神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 三百三十七 回 目 劇映画 『 ビッグチャレンジ! 』 その四 (56) 商店街 活気のない寂れた通りを、一太郎が行く。くたびれた表情で立ち止まり、ぼんやりとトイ類を眺めている一太郎に、オコチャ店の店主が声を掛けて来た。 店主「まあ、こちらにおはいりなさい…、今お茶でも差し上げましょう」 一太郎「あッ、これはどうも…、恐縮です」 店主「昨今じゃあ、御覧の通りこの界隈もすっかり寂れてしまいました」 一太郎「本当に我々庶民には、暮らしにくい世の中になりました」 店主「うちも親父の代から細々と商売していますが、いつなんどき店仕舞いするのか…。本当に淋しい限りです」 一太郎「(近くの玩具を手に取って)子供の時分には、夢で胸が膨らむ思いがしたものです。たとえお腹が空いている場合でもです」 店主「夢だけでは誰も生活して行くことは出来ないってね。うちの親父はよく、子供には夢や希望が米の飯以上に必要なのだって、そう口癖のように言ってましたが」 一太郎「夢と希望ですか……。あっ、これはとんだお邪魔を致しました。お蔭で疲れがいっぺんに吹き飛びました」と、さっきとは別人の如くに元気な足取りで、店を出る。 (57)ホテルのラウンジ・コーナー(別の日) 急ぎ足でやって来る一太郎。目で誰かを探すようにしていたが、隅の席で向かい合って座っていた一組みの男女に、視線を止めた。つかつかとその隅の席に近づき、 一太郎「好子さん、遅れて済みません」と、中年の女性の隣りに腰を下ろした。吃驚する二人。 一太郎「好子さん、この封筒はハンドバッグに戻して下さい」と、テーブルの上に出されたばかりの分厚い封筒を手に取り、女性の両手に握らせた。 男「君ッ、失礼にも程があるじゃないか!」 男は怒りで全身を震わせている。周囲の視線が一斉に三人に向けられた。 一太郎「(相手を威圧するような落ち着き払った態度で、しかし低声で)静かに。大きな声を出すと貴君の為になりませんよ。今、所轄のお巡りさん達が此処に向かっている途中です。早くこの場を立ち去らないと、どんな事になるか……。貴君自身がよく御承知の事柄ですネ」 男「失敬な。北大路さん、改めて御連絡します…」と、顔色を変えた男が這々の体で退散して行った。 北大路好子「日本さん、御親切にどうも有難う。でも、どうして分かったの、私達がこの場所に居るってことが…」 一太郎「以前にも此処で、あの男と会われているのを、数回お見掛けしていましたので。さっき、御社に伺いました折に、後輩の方から気になる事を耳にしたので、こんな事ではなかろうかと」 好子「じゃあ、さっきの警察の話は―」 一太郎「ええ、嘘です。口から出まかせです、私なりに一生懸命でしたから」 急に、大粒の涙を流す好子。 好子「私だって、男の人からキレイだって、一生に一度でいいから言われたかった。夢よ、乙女チックな、本当に子供染みた感情だわって、自分でも思うのだけれど……」 一太郎「 ―― 」 好子「私、知ってたよ、全部嘘だって、結婚詐欺だってこと。でも、わたしはバカだから、それでも好いと思った。お金なんか、いくら貯金してたって私の為に、何もしてくれないもの……」 一太郎「(言葉もなく頷く)」 (58) 大衆演劇の劇場・中(別の日) 赤や青の原色のライトが点滅する場内では、劇団の花形・早乙女誠也の華麗な日舞が演じられ、独特な熱気に包まれている。その舞台に近い席に、お得意先の女性副社長を招待した一太郎が居る。 一太郎「如何ですか、お気に召しましたでしょうか?」と隣の副社長の耳元に囁いた。 副社長「予想外に楽しいです」と、まるで少女のように上気し興奮している。 一太郎「良かった……」と、満足げである。 (59) 同・表 公演を終えた座員たちが総出で観客を見送っている。副社長も先客たちに見習って花形に握手を求め、子供のようにはしゃいでいる。 副社長「日本さん、是非もう一度ここへ連れて来て下さいね」と一太郎に耳打ちした。 一太郎「はい、畏まりました」 一太郎は、満面の笑顔である。 (60) 町の食堂(夕方) 一人で、少し早目の食事をしている一太郎に、店員が声を掛けた。 店員「お客さん、今日は何か嬉しいことがあったみたいですね」 一太郎「うん。でも、どうして分かったの」 店員「うちみたいなちっぽけな店でも、商売は商売ですから、御客さんの事っていつも気になるのです。たとえ一回限りの一見(いちげん)さんでもです」 一太郎「そういう物ですかね」 店員「増して、お客さんの場合は常連さんですから、特別に…」 一太郎「有難う。気が向いた時にしか来ないのに―」 店員はカウンターの中のマスターを気遣いながら、 店員「俺ですね、早く料理の腕を磨いて、値段は安いけれど、飛び切り味が良いと言われるような、自分の店を持つのが夢なんです」 一太郎「成程、大きな夢があるんだ」 店員「ちっぽけな、だけど、オレにとっては大切な人生の目標なのです」 その時、新しい客が入って来た。鬼田幸三であった。 鬼田「なんだ日本君、随分としけた所で、ささやかな夕食ですねェ」 店員が露骨に嫌な顔をするのにも、全く意に介さない横柄な態度である。 鬼田「ビールをくれ!」 一太郎の隣に、ドッカと腰を下ろした。 一太郎「お疲れさまです」と涼しい顔をしている。ムカッとした口調で、尚もしつこく絡んでくる鬼田。 鬼田「大体、あんたの女房が気に喰わないネ、貞女ズラして……。少しぐらい別嬪だからって、鼻にかけやがって―」 一太郎「妻の悪口は、止めて下さい」 静かだが強い口調に、一瞬ギクリとするが、更に絡んで来る鬼田。 鬼田「第一、亭主のあんたがだらしがないよナ。おい、ビール早く呉れ」と催促し、出されたビールを一気に呷った後で、 一太郎「どう、一杯。僕が奢るからさ」 一太郎「まだこの後営業の仕事なので、遠慮します」 鬼田「チェッ! 馬鹿じゃないの、あんた。亭主が謹厳実直に、模範亭主を絵に描いたように仕事している隙に、自慢の美人の奥さんが、他の男と浮気しているってネ」 一太郎「止せって言った筈だ」 キッと向き直った一太郎の迫力に、タジタジとなる鬼田だが、余程虫の居所が悪いのか、 鬼田「暴力はよせよ、暴力は…。僕の言いたかったのは、男には甲斐性ってものが必要だって事。君のように唯馬車馬の如く仕事、仕事って働くだけが能じゃないってこと。時には女遊びや、浮気の一つも出来ないようでは、肝腎の営業の成績だって、伸びやしないって言いたいの」 一太郎「ご忠告有難う」 勘定を済ませて出て行く。呆然と見送っていた鬼田が、突然大声を挙げて泣き出した。 鬼田「チクショウ、夫婦で、この俺様をコケにしやがって……」と、地団太を踏んでいる。 (61)日本家・リビング(深夜) 一太郎が玄関から入って来て灯りを点けると、桜子が一人でテーブルの前に座っていた。 一太郎「何だ、まだ寝ないでいたのか?」 桜子「……」、浮かない表情である。 一太郎「何か心配事でも?」 桜子「いえ、特別の事ではないのだけれど…」 一太郎「さっきの、電話での話の件だけど…」 桜子「男同士の附き合いに口を挟むなと、あなたは仰るけれど、鬼田さんだけは―」 一太郎「口は確かに悪いが、根っからの善人なのだ、あの人」 桜子「そうかしら?」 一太郎「そうかしらって、君は僕の言うことが信じられないのかい」 桜子「そうじゃありません。ただ、鬼田さんの件だけは、どうか考え直して頂きたいの」 一太郎「諄いよ!(珍しくイライラとしている)君はそうして、僕の事を一から十まで全部支配しようとするのだ。結構腹黒いんだから」 桜子「まあ、腹黒いですって……、あんまりだわ」、横を向いて涙ぐんでいる。一旦置いたカバンを手に持つと、一太郎は、 一太郎「二、三日は会社の方で寝泊まりするから…」と再び家を出て行った。 一太郎のモノローグ「自称ライバルの鬼田幸三が妻の桜子にストーカー行為を繰り返し、挙句に桜子から手酷い肘鉄砲を喰らった経緯を知ったのは、大分時間が経過してからの事だった」 (62) J M C のオフィス(早朝) ガランとした部屋。自分のデスクにうつ伏せになり、仮眠をとっている一太郎。突然、電話が鳴った。ガバッと跳ね起きて、受話器を手に取る一太郎。 一太郎「はい、……、何だ、間違い電話か……」 それから、デスクの上に置いたままの自分の携帯電話に視線を遣り、しばし思案する一太郎。――時間経過。誰も居ない部屋に一太郎ひとりだけが居る。深夜である。仮眠をとろうとするが、眠れない。時々、デスクの上の携帯に目を向ける。まだ、迷っている。 (63) 最寄りの駅(夜) 睡眠不足と疲労とで憔悴した表情の一太郎が出て来る。 (64) 住宅街の通り(夜) 重い足取りで歩む一太郎の足が止まった。見ると、正装した桜子の後ろ姿が角を曲がろうとしている。ハッとなる一太郎。桜子の跡を追う。 (65) 表通り 先を行く桜子が手を挙げてタクシーを止め、乗り込んだ。続いてやって来たタクシーに、 一太郎「済みません、あの先を行くタクシーの後を追いかけて下さい」 運転士「はい、畏まりました」 一太郎の表情が固い。 運転士「失礼ですが、御客様は興信所の関係の方でしょうか? 近頃に始まった事ではありませんが、増えているそうですね。つまり、人妻の火遊び、ですか…。こういう稼業をしてますと、ごくたまにですが明らかに水商売の女性ではない、すっ堅気の女性から誘われることがあるのです。わたしお金がないので身体で払うわってネ。本当なんですよ」 一太郎は、無言である。先行するタクシーから降りる桜子。続いて、少し手前でタクシーを降りる一太郎。 (66) 暗い道 先を急ぐ桜子の後を追う一太郎の緊張した顔。メイクした桜子の顔は、息を飲むほどに美しい。 (67) 神社 拝殿の前で、一心に祈りを献げる桜子。 桜子の祈り「夫が、一太郎がセールスの仕事で成功致しますように、お願い申し上げます」 離れた所から、その姿を見守る一太郎。言葉は聞こえなくとも、妻が何を神に祈願しているのかは、ストレートに伝わって来る。一太郎の見た目の桜子の姿が、涙で滲んで、霞む。 (68) 郊外の駅(数日後) 列車から降りて来る一太郎。 一太郎のモノローグ「次の日曜日、私は娘の美雪が働く果樹園農家を訪れた」 (69) 道 地図を見ながら、一太郎が山の方に向かう。 (70) 果樹園 農家の主人から指導を受けて、真剣な表情で作業に打ち込む美雪の姿がある。少女に案内されて来た一太郎が足を止め、働く娘の姿に見入る。 一太郎「……」、その顔に満足げな笑みが浮かんでいる。 (71) サッカー場 観客席に、一太郎と二男・正次の楽しそうな姿がある。 一太郎のモノローグ「次の日曜日にも、私は家族の一人と正面から向き合う時間を持った」 正次「ナイスシュート!、あっ、外れたか……、残念」 父親の一太郎もゲームの内容に惹き込まれ、息子以上に熱中している――。 (72) 日本家・台所(別の日) エプロン掛けした一太郎が慣れない手つきで包丁を持ち、料理をしている。その表情はかなり真剣である。 (73) 同・二階の健太の部屋 ドアをノックして、一太郎が入って来た。 一太郎「母さんから、カレーライスが好物だって聞いたから、作ってみたんだ」 ベッドの上に横になっていた健太が、むっくりと起き上がり、少しムッとした表情ではあるが、父親の差し出したカレーの皿を受け取った。 一太郎「あまり自信はないのだけれど、食べてみてくれないか」 健太「うん……」と一口食べた後、続けて二口、三口とスプーンを口に運んだ。「旨いよ、有難う」 一太郎「そうか。それは良かった。あっ、今冷たい水を持ってくるからナ」と、子供の様に浮き浮きしている。 一太郎のモノローグ「日曜日を使っての家族奉仕の時間は、少しばかり効果を発揮したのだが――」 (74) ゴルフ場・コース(別の日) 得意先の重役のお伴で、一日キャディ役を買って出た一太郎が、汗だくでサービスにこれ努めている。 一太郎のモノローグ「仕事の方は一向に、好転の兆しが見えないのだった」 パットが決まらずに不機嫌な重役に対して、不器用な一太郎は、臨機応変の対応が出来ないのだ。 (75) 別の会社の重役宅 祝日に、得意先の重役の自宅に出掛け、無料奉仕で庭木の手入れを買って出た一太郎。 重役「日本君、本当に大丈夫なのだろうね?」 脚立の上に乗り、植木バサミを使っていた一太郎が、元気よくそれに答えた。 一太郎「これでも若い頃には、植木職人の見習いをしたことがあるのです」 重役「ほう、するとプロの腕を持っているのだ、君は」 一太郎「昔取った何とか、と言いたいところなのですが、実は、半年ほどで馘首(くび)になりました」 重役「えっ、半年でクビ!」、とても不安げである。 (76) J M C ・オフィス(朝) 遅れて出社して来た一太郎の顔を見るなり、課長が声を掛けた。 課長「遅刻だよ君、さっきから部長がお待ちだ」 即座に、部長の所に行く一太郎。 一太郎「部長、遅くなりまして申し訳ありません。お得意様へ直行したものですから」 部長「この方のオフィスを訪ねてくれ給え。社長の知合いで、業界では セールスの神様 と異名を取るくらいの、凄い女性だそうだ」と、一枚の名刺を手渡した。 一太郎「畏まりました」 一太郎が名刺を見ると、『 南亜モーター販売、営業担当、新谷 春子 』とだけある。 一太郎「部長、この方をお訪ねして、一体何を致したら宜しいので?」 部長「兎に角、行ってみたまえ。行けば解るようになっているから」 一太郎「はい」