メモ(最近強く思う事)
最近のニュースを見たり聞いたりして頻りに感じる事があります。それは大企業に代表される組織の枢要に在る人々の精神的な堕落の在り様なのです。 高級官僚の堕落は夙に指弾されていましたが、最近相次いで発覚している企業による不正は、企業だけの問題ではないかも知れませんが、その影響が甚大なだけに放置しておくわけにはいかない、社会的な大問題ですね。誰が一体悪いのか? 誰でもない市民である私達一人一人にも、その責めが帰せられるべき事なのです。そんな莫迦な、と人々は言うに相違ない。しかしそういう社会的な風土を作り上げ、支持しているのは他でもない、私達自身なのですから。 つまり、天に唾した報いを受けただけの話ですから。一体全体どういう理屈なのか? あまり罪の意識のない大多数の 純粋無垢で、善意の塊 のような市民の皆様方に、懇切丁寧な解説と説明を試みてみようと思います。 昔、と言ってもそんなに遠い時代ではありませんが、制度として階級社会が定着していた時には、社会的に大きな問題が生じた場合には、支配者やそれに連なる所謂支配階級の非を鳴らしていれば、一応事が済んでいた。しかし、押しつけでも拝受した物であっても、民主主義が制度として定着して久しい今日は、形式的には国民乃至は市民と呼ばれる我々一人一人が主権者でありますから、社会の重大事は最終的には主権者の責任であって、逃れるすべはありません。当然に問題を起こしたり、罪なり重大な過失を行った当事者は法律によって罰せられる必要がある。しかし、今日の悪人は、それも性質のよくない極悪人に限って、己の罪などから責任逃れをする術に長けている。穿った見方をするならば、そういう、ポテンシャルとして「社会悪」を犯すことの巧みな「指導者」を出し易い社会制度なり教育の仕組みが張り巡らされていて、容易には人の目に付かないようになってしまっている。ずばり核心を突いて暴言めいた発言をするなら、罪を犯すそのこと自体は「悪」なのではない。その隠れた悪を隠し切れずに、起訴されて裁判で争う場合に明白な証拠を残したのが、責められるべき「過失」なのだ。誰もが、言葉には出さないけれども、胸のうちで温めている「大人の知恵」が、私達の健全な市民社会の底辺の「裏文化」となってしっかりと、いつの間にか根付いてしまっている。健全な倫理観の腐敗そのもの。 昔の日本人は、嘘を吐いたり、悪い事をしたりすると、「天知る、地知る、己知る」と誰も知らないと思う事でも既に 三者 が知っているのだから、天地神明に恥じない生き方をするように、「目に一丁字も無い」無学な、社会の最下層に生きる庶民であっても、いや、そういう貧しさや困難を強いられる人々であったからこそ、清潔で正しい生き方を保持していた。 所が、昨今ではその様な「単純で素朴な」生き方は地を払ってしまっている。激烈な競争社会を生き抜かざるを得ない現代人は、他人を出し抜いてでも、敢えてズルや悪を冒してでも、兎に角勝ちぬかざるを得ない事を骨の髄まで叩き込まれ、教え込まれている。「勝てば、官軍」の歴史の教える教訓は健在そのものなのですね。 いや、それどころか遥かな時を隔てた太古からの不文律の掟、弱肉強食の大原則、生物界を大きく貫いて揺るがない唯一の鉄則は、今日の人間社会においてこそ猛威を振るい、猖獗を極めている。ただ、文明と言う見せかけ、まやかしの衣裳が人々の目を欺き、本質を見えにくくしているだけに過ぎない。つまり、敢えて断言すればダブルスタンダードなのだ。建前の「民主主義、自由平等、人権の国家に依る保証、生命・健康・財産の安全保障、etc. 」と言った偽善そのもののペテンの文化主義と、本音の「勝った者、強者が正義」の動物的な本能主義と。 そもそもがデモクラシー、民主主義とは歴史的・伝統的な「強権主義」のある特定な強者だけが様々な特権を独り占めにするやり方に、強く、強く反発し、反対し、異を唱える所から発して、互いが互いを警戒して監視するシステムとしてスタートしながら、その根底に潜んでいる人間一般に対する不信感や猜疑心を無意識に恥じ、嫌悪する感情からか、それを隠蔽しているうちに自己欺瞞の最たる醜悪な最下部に堕してしまった。だから、人々は「朱は赤だ」と言い切る蛮勇(?)、乃至は、真の勇気を持たなくてはいけないのだ。または、衣の下に鎧が透けて見えている、と大きな声で叫ばなければいけない。 それも歴史上の豊富な実例が私達に教えている、権力のヒエラルキー(ピラミッド型の階層組織)の頂点に立った支配者がどの様な振舞に出るかを。それは一つの例外もなく、自己一個の保身、永世への飽くなき追及と、物欲等に対する貪欲で満足する事のない欲求の、これまた果てしの無い充足・拡充への執着・我執の凄まじさとでありました、一人の例外もなく。 今やグローバルな世界企業として地上に君臨する巨大過ぎるメガ企業の行動は、人体における癌細胞に酷似した振る舞いと化して、一国の近代国家の法律の手の届かない「無法地帯」を気随気儘に闊歩している観があります。誰の目にも余りにも巨額過ぎる暴利を貪り過ぎていると、判断しない訳にはいきません、実際の話が。 ことほど左様に、人は誰彼の別なく際限のない欲望に駆られて暴走する、欲望の権化の如きの動物であります。歯止めやブレーキが利かなくなったが最後、地獄の果てまで権力や物欲を希求して止まない、何とも浅ましい限りの存在である。人間存在を根柢から否定するモメント、絶対者の神を「殺して」我利我利亡者と化した化け物たちが、その予備軍も含めて五万と居る。 この絶望という名に本当に値する事態を眼前にして、私達は茫然自失しているわけには参りません。神におかれてはこの様な事態は既にして織り込み済みなのですから。私達は粛々と、何度でもこの地獄さながらの世界から希望に向かって立ち上がり、静かに歩を進めなければなりません。頑張ろうではありませんか、御同輩諸君! そもそも考えてみるまでもなく、利益至上を目的とした商業や企業の行き着く先に、公共の福祉や安寧という理想や夢は生まれる筈もなく、人類全体の平和や幸福を追求する、全く違った発想やコンセプトに基づく全く新しい、そして真の人類的な希求に発する行動が待望される時代を既にして私達は迎えているのでありました。 そして、本音の、そのまた本音を言えば今度の読み聞かせに始まるセリフ劇構築の活動は、こうした時代の要請に敏感に反応して、新しい時代の幕開けを自らの使命とする、本当に画期的なムーブメントの先駆けとなる模範的なアクティビティー・行為行動と位置づけられるべきものなのです。一隅を照らす光はやがてそのままで、全世界を輝かす大きな希望の灯へと躍進し、大発展を遂げるのは謂わば必然なのです。私達はこれから、その大切な第一歩を粛々と、確実に大地に印したいと念願するばかりなのであります。 私達がこれから示す実に ささやかな半歩、否、百分の一歩、千分の一歩にも満たない踏み出しでさえもが、大局的に俯瞰して見た時には 巨大な前進 を意味することが、ご理解ご納得頂けるならばこれに過ぎる幸いはないわけであります。当事者である「選ばれた」町民の方々御一人御一人には勿論の事ご協力をお願い致すのですが、周囲で温かい眼差しを向けて見守って下さっていらっしゃる人々に対して、此処に改めて熱烈なる御指導御鞭撻の程を衷心より、伏してお願い申上げる次第で御座います。平成最後の年の年末近くに際して、草加の爺・古屋 克征 謹白。