神慮に依る「野辺地ものがたり」
劇は 無条件に 楽しいもの、楽しむもの 第 三百九十七 回 目 これからしばらくは、シェークスピアの「ハムレット」と「作中人物のフォルスタッフ」、ギリシャ悲劇の「オイディプス王」を題材として具体的に劇の魅力とその特質について、幾つか思いつくままに出来る限り面白く、楽しく話を進めて参る所存です。どうぞご協力をお願い致します。つまり参考となるご意見なり批評なり、その他自由で闊達な発言を心待ちに致して居ります。出来れば、予定しているセリフ劇の構築に積極的に活かして行けたらと、愚考致して居りますので。 さて、天才沙翁の有名な傑作とされる「ハムレット」ですが、私・草加の爺めは恥ずかしいことでありますが、長い間その真の魅力を把握出来ないでいた。新劇界で何故そんなにもハムレットが持て囃され、ハムレット役者が憧れの的になるのか? 深い意味はなく、ただ単純に理解が浅かっただけに過ぎないのですがね。もっとも、私は演劇に限らず、クラシック音楽やピカソの絵などに対しても理解が浅かったというよりも、「音痴」であり「目がなかった」のですから、偉そうな顔など誰に対してもできない。敢えて言えば晩熟(おくて)の最たる者であります。その人間が劇・ドラマ・芝居について理解の浅い方々にささやかなプレゼントとしてお贈りする、初心者用の手引きのような事柄と、まずは御承知おき下さい。 「ハムレット」は一言で言えば復讐劇である。忠臣蔵が主君の無念を晴らすそれであれば、ハムレットは父親の仇を、叔父であり生母を卑劣にも寝取った卑劣極まりない悪党に、正義の刃を振り下ろして倒し、自らも毒刃にかかって死ぬ。典型的な悲劇であります。 劇作家沙翁の素晴らしさは、題材を如何に見事に描いたか、その表現の見事さにあります。才能ある若き王子、その恋人オフィ―リア、敵役のデンマーク王クローディアス、道化役の宰相で美貌のオフィ―リアの父親ポローニアスといった在り来たりの人物を配して、天才がどの様な健筆を揮い如何なる筆致で劇的な興趣を盛り上げ、最後にカタルシスを齎してくれるのか。観所、読みどころ、演出の妙はこの一点にある事は誰もが承知している。頓珍漢な解釈や誤解が混入するのは、この作劇上の約束事を弁えていないから、に過ぎない。 世界中の演劇史の中でも最も上演回数が多く、成功間違いないとされる芝居の傑作は、基本的には単純極まる解り易いテーマと、無類の起伏に富んだ内容とに因っている。to be , or not to beなどの名セリフも数多い。そして文句なく無類に面白い、演出さえ間違えなければという但し書きがつきますが。勝手に問題劇として過度に深刻化したり、近代的な心理や性格描写を持ち込んだりしなければよい。素直に演じ、自然に原作通りに演出すれば、素晴らしい舞台が保証される。 続いて騎士のフォールスタッフについて述べましょう。御存知の如く「ヘンリー四世」の脇筋の喜劇的な人物ですが、一種の怪物なのですが飛び抜けて、傑出して魅力的な人物であります。 福田恒存は言う。あらゆる負を一手に掻き集めて正に化してしまった様な人物で、俗物である事は勿論、臆病であり、卑劣であり、狡猾であり、見え坊であり、破廉恥であり、好色であり、貪欲であり、ありとあらゆる悪徳を身に附けてゐる。もし彼に無い悪徳があるとすれば偽善であるが、その偽善でさえ必要とあらば徹底的にやってのけるであらう。フォールスタッフは他人に何と思はれようと、どう呼ばれようと恐れない。生きる為には何にでもなる。それでゐて一片の暗さも無い。世にこれほど屈託の無い人物は存在し得まい。彼の魅力はそこに盡きる、と。 彼、フォ-ルスタッフはまさに人間であることの極限に居る。現実には存在し得ない 怪物 に相違ないが、余りにリアルであり、あらゆる人間の中にフォールスタッフの影が見え隠れして見えると、少なくとも私には感じられるし、恐らく「神」の視点からすれば「無垢な赤子」の如く無条件で愛さずには居られない程に、「愛らしく」もあるのだろう。それに較べると現実の人間は少しだけ謙虚だったり、少しだけ賢さを発揮したり、少しだけ「善」を自他に向かってけち臭くひけらかす様に存在している、何故か。それは、その不思議に関してはセリフ劇を発展させる過程で、皆さまと御一緒に考察を深めて参りたい課題のひとつに挙げておくに、ここでは留めて置くことにします。 古代ギリシャ悲劇の代表作の「オイディプス王」の説明に移ります。この劇には悪人は一人も登場しない。善人たちの善意が最後には恐るべき大惨劇を実現させてしまう。人間の善意の行為が不可避的に主人公始めとする人々の頭上に、世にも恐ろしい運命として降りかかる。王自身のみならず、王の后も、二人の羊飼いもすべて善意をもって、人間らしく行動する。二人の羊飼いの赤児に対する憐れみの情が、その後の恐るべき悲劇の発端となっている。 オイディプスとイオカステとの神託( お前の子がお前を殺し、お前の妻との間に子をなす、というもの )の実現を避けようとする、あらゆる努力はすべて空しい。此処に見られるのは人間の虚しさと、どうしても逃れられぬ運命の 不可避性 とである。しかも、第三者からすれば、これらはちょっとした弾みで、避けることが可能なのだ。 それ故にもたらされるカタルシス効果は、最高のものとなる。「観巧者の観客」がその場に居合わせれば確実に。 これからの時代は、A I とかロボットが人々の仕事の分野に大きく進出して、人間に取って代わろうとしている。しかし劇の世界にだけは人間以外の何者も入って来ることは許されない。劇は徹頭徹尾に人間の世界であり、人間だけが主役の座を永遠に占め続ける、人間の為の人間に依る人間だけの最高に素晴らしい世界であり続けて止まない、決してそれ以外にはならない、断じて…。 人生意気に感ず、功名誰か論ぜん ―― 人というものは心の触れ合いが最も大切なのだ、積極的に何かをしようとする気持ちや意気込みこそがその人間の真の価値を決定づける故に、その結果である功名(手柄を立てて有名になる事)は枝葉末節の事柄にしか過ぎない、たとえばこのような境地は機械には理解出来ない、人間にだけ通じ合う心の交流の有難さを強調した言葉だから。 身近な例を挙げてみましょう。昨日(1月20日)センター試験が終わった。今年もまた私の担当する生徒が受験した。彼にも私・草加の爺は自分の言葉で同様趣旨の事柄を述べました。君は既に大学受験の準備というプロセスに於いて十分に立派だった。日頃の実力を発揮すれば合格する可能性は大である。人は、親は結果だけを重視する。けれど既に君は人生と言う大きな試験に合格したも同然の成果を示した。一番身近で私、公平にして同情心に溢れた同伴者たる私は、しっかりとそれを見届け、合格点を出している。何も恐れる事はないので、平常心で試験に臨むがよい、と。中学受験の生徒にも同様のことを、彼女に通じる言葉で伝えています、まさに「人生は意気に感じる」ことこそ一番の大事なのであります。後は、神様の言う通り、に従い、素直に努力を継続すればよいのでありますね。 オリンピックで言えば、メダルを取る取らないは二の次、三の次のこと。自分のベストを尽くそうと決意し、その為の努力の姿勢を固める事。その努力が継続出来たとき、その人は既に人生と言う場・フィールドで最高のメダルを手にしている。 私に則して申せば、私は野辺地でのセリフ劇の構築を決意出来た瞬間から、様々な御褒美という人生競技場裡での色々な過褒なメダルを次から次へと与えられている、手にできている、有難いことに。 くもりガラスを 手で拭いて / あなた明日が 見えますか / 愛しても愛しても ああ他人(ひと)の妻 / 赤く咲いても 冬の花 / 咲いてさびしい さざんかも宿 ぬいた指輪の 罪のあと / かんでください 思いきり /燃えたって燃えたって ああ他人の妻 / 運命かなしい 冬の花 / 明日はいらない さざんかの宿 せめて朝まで 腕の中 / 夢を見させて くれますか/ つくしてもつくしても ああ他人の妻 / ふたり咲いても 冬の花 / 春はいつくる さざんかの宿 嘗て大ヒットした「さざんかの宿」の歌詞ですが、ストレス解消の例としてわかりやすいと考えましたので唐突で恐縮ですが、引用しました。不倫の唄ですから、道徳上からも「けしかぬ」、「言語道断だ」と議論の余地もなく頭から否定されるべきこと。実人生では、という但し書きが附くのですが。それが大勢の人々から愛唱される。単なる、罪もない流行歌に過ぎないから。そうです、実人生で許されない欲望や衝動をフィクションという架空の次元で満足させ存分に味わい尽くし昇華させる。単に否定する、押さえつけるだけでなく、悪の悦楽に溺れこませ、とことんまでしゃぶり、満腹の極みまで行着きさせる、敢えて。そして、無理なく捨て去ることを可能とさせる。人は禁止されればされるほど、その対象に惹きつけられ、のめり込もうとする悪業のような習性・傾向があるので。 一口に悪の誘惑とか、悪徳の愉悦などと簡単に言うのですが、何故に悪や悪徳がこれほどに人々を魅了して止まないのか。真相は誰にもわかりません、恐らくは永遠に。 これはここだけの話に止めておくべき秘密ですが、そして私・草加の爺一人のとんでもない謬見ですが、参考に供する意味で申し上げます。 人は悪や悪徳が闇雲に楽しく、汲み尽くせない快楽を与えてくれるので、それをするのであります。人殺しは愚か、弱い者虐め、盗み、姦淫、詐欺、ペテン、暴力、嘘、裏切り、貪欲、などなどかず限りもない悪行が純粋に楽しい行為なのであります、よだれが自然に垂れて止まらない程に美味しそうな対象物なわけですよ、ありていに言ってしまえば。 それに比べれば、所謂善と呼ばれる行為には苦痛が伴う。自己抑制が必須であります。それゆえに大人たちが躍起になって、例えば道徳教育などと言う物を強制しようと目論む。要するに、良いことや望ましい事柄には困難や苦痛と言った、一見して避けたくなるような「望ましくない」前提の条件が要求される。 従って、衝動的・刹那的に走りがちな人間の習性として、どうしても善よりも悪が優勢を占めてしまう。悪貨は良貨を駆逐する、のでありますね。これは飽くまでもひとつの解釈にしか過ぎない、現在のあるがままの現実に対する。 問題なのは、積もりに積もり、溜まりに溜まっていく「無意識」なストレスの処理方法なのでありまして、現状では個人の対処すべき範疇をはるかに凌駕して、既に限界を突破してしまっていることは、誰の目にも明らかでありましょう。この時代の、人類に共通した大きな課題にオーソドックスと言えばこれほどに正統的な手法もないと思われる、待望の処方箋が私たちの目指すセリフ劇なのであります。