神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 四百三十四 回 目 セリフ劇の台本の素材の試作として 「 水と 少年 」 時代:神話時代に近い頃 場所:日本列島の或る地方 人物:ひれじゃこ(主人公の少年) おにぐも(少年の父親の王) ゆきつばき(少年の生母) べにあざみ(不思議な少女) その他 物語の発端 激しい嵐の中で木樵の老人と12歳の少年・ヒレジャコが巨大なクマと対峙している。老人は既にクマの最初の一撃を受けて、瀕死の重傷を負っている。クマの背後から忍び寄って敏捷に背中に跨った少年は手にした石斧をクマの脳天めがけて、力一杯に振り下ろした。クマはたまらずその場に倒れた。 父親替わりに少年を育てた老人は、その時の怪我が原因で息を引き取った。その最期の時にヒレジャコ少年に告げた、「お前はわしの倅ではない」と。森の中に住む理由を失った少年は放浪の旅に出る。 放浪の旅 少年は葦舟に乗って川を下り旅を開始した。 この旅の中で少年は不思議な少女・ベニアザミと運命の邂逅をする。少女は彼に「東に行け」と、謎の言葉を残していづこともなく姿を消した。 生母との出遭い 東の国で偶然のことから生母のユキツバキと出会い、自分が西の国の王とユキツバキとの息子であったことを知る。母が少年を自分の息子と明確に認めたのは、右の腕にある特徴のある黒子であった。ユキツバキハはカヤネズミを産んで直ぐオニグモの支配する国と敵対関係にあった北の国に侵略された際に、北の国の若者に掠脱された。そして、父王・オニグモはカヤネズミを深山に捨てさせたのだ。この生母との出会いによって、少年は自分が何者であるかを生まれて初めて知った。 故郷への帰還の旅 盗賊の群れに襲われて捕虜になる。そして過酷な労働を強いられた。そのカヤネズミを救出し、父の国へ急げとまたもや謎の言葉を与えるあの不思議な少女のベニアザミ。 父王との対面 ヒレジャコが西の国に帰り着いた時、世継ぎを持たない王は自分の後継者となる者は、最強の武者でなければならないと、武力を競うトーナメントを行う布告を出していた。そして、ヒレジャコが故郷の国に着いたその日が、そのトーナメントの行われる日であった。 大勢の人々が見守る中で、激しい戦いが次々と展開し、最後の勝利者が決定した瞬間に、カヤネズミが登場し対決を挑んだ。そして勝利した。 父王は立派な青年に成長したカヤネズミが自分が捨て、死んだと思っていた息子だと知る。 カヤネズミは王位を継ぎ、若き支配者となった。そしてベニアザミを探し出し、后として迎えた。 以上は、若い頃に少年少女向けにまとめようと考えていた小説の骨子である。いずれその時が来た時には、戯曲にしてセリフ劇の台本候補にしたいと、考えている。 こうして漫然と来るべき時に備えて、いくつか試作品を考えているのですが、野辺地の町の人々との具体的な接触のないままで、謂わば手探り状態での勝手な行為になってしまい、こちらにその気がなくとも一方的な押しつけのような感じになる事が、私としてはひどく心配なわけです。 目下、古典的な傑作と言われている戯曲の名作を、初心に返って改めて勉強中であります。 古代ギリシャのソフォクレス作「アンティゴネ」、「オイディプス王」、ゴーリキーの「どん底」、イプセンの「ヘッダガーブラー」、「野鴨」、「幽霊」、バーナード・ショーの「聖女ジャンヌ・ダルク」、T ・S ・エリオットの「カクテル・パーティー」、オスカー・ワイルドの「サロメ」、ユージーン・オニールの「氷屋来る」、テレンス・ラティガンの「海は青く深く」、チェーホフの「かもめ」、「桜の園」、「三人姉妹」、その他シェークスピアの代表的な作品などを手当たり次第に注意深く読み耽ったりしたのですが、たとえばこれらを野辺地でのセリフ劇で上演するまでには、相当の時間がかかり事実上は無理であることが分かります。少なくとも私の目の黒い間には、逆立ちしても無理でありましょう。 興業的な成功も視野に置いて独自の演劇世界を構築する為には、それなりのレパートリーを独自に開拓して、構築する必要があります。それは非常に困難な仕事であり、一朝一夕には実現できないことは明白でありますから。 後から来た者の利点と言っても自ずからに限界があり、現状では荒れ果てた荒野を切り開くたくましい勇気と情熱とが必須でありますよ、どう考えても。 今更ではありますが、戯曲の勉強をと考えてチェーホフの一幕物「熊」と「プロポーズ」を読んでみました。 「熊」の方は地主の未亡人で亡くなったご主人を悼んで喪に服している。そこへ、熊の如き容貌・風采の男が借金を返せと迫ります。未亡人は支配人が留守で明後日でないと無理だと言う。男はたった今支払えと強引です。貞淑な未亡人と恐ろしい熊のような男との遣り取りだけで、この芝居は展開します。そしてこの水と油の如き二人の男女が、熱烈な恋人同士に変じてしまう。 非常に巧みな展開で、私は読んでいて日本の落語の世界を、感じたものです。 落語と言えば「プロポーズ」の方も同様です。隣り合って住む地主同士の話です。非常に改まった正装姿で隣に住む独身の男が隣人を訪ねて来て、適齢期の娘を持つ地主に、お嬢さんにプロポーズしたいと告げる。地主は喜んで娘を呼んで二人きりの場を作った。ここまでは良いのですが、二人の会話があらぬ方にばかり進展して、大喧嘩に発展してしまう。しかし結末は定石通りめでたしめでたしで終わる。これも日本の落語そのものだ、と私は思いました。 バカバカしいと言ってしまえばそれまでですが、私達人間にはそうした極めて人間的な特性がある。説得力のある会話の妙が、少しもバカバカしさを感じさせない。 そこで、私なりの落語の世界に関する考察を以下に述べて、お茶を濁したいと思います。 落語は私は若い頃から大好きでして、難しい理屈を抜きに笑いの世界に興じる事が出来ました。映画もそれこそ物心が付くか付かないかの頃から親しんでいた。 映画で落語の世界そのものと感じさせたのが、渥美 清演じた「男はつらいよ」シリーズでありましょうか。 落語の世界を一口で表現すれば、人間の善意が無条件で信じられる、一種の理想の世界であります。それがこのシリーズの主人公フーテンの寅が体現している。寅さんは飽きもせずに美女達に一目惚れして、手もなく振られますが、決して懲りることはありません。美人は無条件で心も美しい。自分が心美しい善意の人の代表である彼は、謂わば神のごとくに無垢で純真である。バカバカしい程に。 チェーホフの会話の運びの巧さがバカバカしさを少しも感じさせなかったように、天才渥美 清の秀逸な演技力がその危うさを、一歩手前で救っている。 この間の事情を彼・渥美 清はスーパーマンの比喩で世人に訴えていますが、成程、そういうことだったのかと、私などは感じたものです。が、一般には中々通じないものかも知れない。 落語には限らないのですが、講談や浪曲などでもよく取り上げられる庶民のヒーローに、左 甚五郎があります。飛騨の匠である甚五郎は彫刻の名人ですから、鼠が本当に動いたりする。ほかにも竹で作った水仙や筒が素晴らしい作品であったりする話があり、人々に非常に好評を博している。 大衆受け、庶民受けするヒーローには一定の型があり、その中心になる要素とは何なのかを考えてみたい。テレビドラマなどで受けている代表格に、水戸黄門や遠山の金さんや、銭形平次などがいますが、基本は勧善懲悪のヒーローで正義の味方であり、弱者の救助者であります。現実には存在しないけれども正しく生き、力が弱い故に不当に虐げられている善良なる人々に優しく寄り添い、危機から救い出してくれる。庶民の夢の体現者であります。 悪者が悪者として正当に裁かれて、罰を受ける。現実は中々そうは行かないところを、フィクションとしてスカッと胸のつかえを晴らしてくれる。人間や社会に対する無条件の信頼心を満足させてくれる。今日一日の辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、割り切れないでいた事、全てが理想的な形で解決に、ハッピーエンディングに向かって滞りなく運ばれる。バラ色の明日、未来を信じる勇気が湧く。 こうした内容の物語なら誰もが楽しめるし、のめり込むだけの価値を認めるでありましょうし、また身近な家族や、友人・知人、隣人に吹聴したく感じるに相違ない。 是非とも、そのような内容のセリフ劇を生み出して、カタルシスの効用を広く世間一般に、宣伝し広めて行きたい。そう強く念願するものです。 こうした、お手軽な形ではあるが、幸福で、平和な生活への活力がひとりでに生まれるような、素晴らしいストーリーが既に準備されているのでした。 この手本を見習って、私も精々新しい傑作を目指して、良質の台本を一つでも多く形にするように、勉強を続け、精進を重ねる覚悟でおります。