自分自身との対話・その五
自分との対話と言うテーマで書き出してから、今回で五回目になる。 そもそも自分が何者で、真実、何を欲しているのか分からずにいる老人に、「自己自身との対話」が成立し得るのかは、甚だ疑問である。 正確に表現すれば、「神」との対話と言うことになろうか。が、自分が分からずに居る私に、対話する相手としての神は、どう規定したらよいのか。今回はこれを少し考えてみようと思います。 私にとって神とは一体何者であるか? 既成宗教の神でない事だけは確かだが、何とも規定し難い。どんな時にその存在を感じるかと言えば、過去を振り返って「不思議」としか言えない事柄の成り行きを考える際などに、強く感じるわけである。 不思議と言えば私の体の成り立ちや機能を想定した時にも、私の意欲とか意識を超えて自ずからに働いている生理現象を思う時に、不思議を実感する。自分の意識なり肉体は自分の物でありながらも、自分を超えた「超越者」に宰領されていると感じざるを得ない。 自律神経とか、副交感神経とか、様々な合理的な人体の働きに関する非常に明快で、見事な説明が与えられてはいるが、それが何故に如何にして生まれながらに備わり、機能するのかなどと考えを追求して行くと、便宜的にもせよ神と言った超越者の存在を、どうしても想定せざるを得なくなる。 例えば、優秀な科学者であればあるほど、神の存在を想定せざるを得ない現実を、どう説明したらよいのか。 神は私を包み込むようにして在り、私はその全体の一部であると理解しよう。現実のあらゆる事象がそこから生まれ、そしてそこに帰って行く。 歴史上の様々な人間が演じ、行い、考えた事柄は全てこの私と無縁ではない。本質的な部分において私は既にこの世での有り得る全てを、神の力によって出し尽くされている。そう解釈するのが正しいのではないだろうか…。私には、神の許さない計画を超えて、如何なる事も成し得ないと覚悟する。それが正しい認識であるらしい。私は自らの意思で何事かを為し、為し得ると信じ込んでいるが、それは無知ゆえの錯覚と言うものかもしれない。ふと、そんな事を感じた。 だから結局は、神との対話とは、自問自答にほかならないと思われるのだが…。