自分自身との対話・その十二
禅の公案というものに一時期、非常に興味を惹かれて、その関係の書物を読みふけったことがあるが、結局は余り理解できなくて、そのままになってしまった経験を持っている。 どんな事をしていても、それがその侭で禅の修行になっていると言う。常住坐臥が、これ即ち修行だと言う。つまり、公案を一つ一つクリアーしていくのも修行の方法であるのならば、一人の凡人として真摯に毎日の自分自身と向き合うならば、それがそのままで悟りの境地への道程と成りうる。要はその人間の心がけ次第ということのようだ。 私は結局、死ぬまで悟りの境地に到達できないであろうと、一種の悟りを得ている。 私の意のままにならないのは、私の心だけではなくて、体も又同様である。例えば、昨日ひどい腰痛に悩まされた。今朝は少し痛みは軽減しているのだが、やはり下半身の冷えから来ているようである。 ようであるというのは、まだ推測の域を出ないので、そのように推測して、それに対応する行動を取ってみているにしか過ぎない。 こうして、心も体も自分のものであって、自分の意のままにはならない。自由にコントロールが効かない。しかし考えて見るまでもなく、私たちは自分の意思でこの世に生まれて来たのでは無いし、また自由気ままに死ぬことも出来ない。そういう基本的には、受身、受動的な存在である。良くも、悪くも。 自己とは何物であるか。そして人生とは、そも何であるのか? これも、様々な他者や環境との対話・交流の中で、少しずつ理解し、理解を深めるより他に手はない。手段を持たない。 我々を大海に浮かぶ一艘の小舟であるとして、第一に我々は何処から来て、何処に向かうのかを知らない。知らなくとも生きられるのだが、我々は自己に目覚めると同時に、この根本的な疑問の虜になる。余人は知らないけれど、私は、そうであったし、今もその模索を続けている。ただ、そうせずにはいられないので…。 海には海流があったり、台風が発生したり、様々な現象が起こっている。それも私自身が自分の力で知り得た知識ではなく、周囲の人々のお蔭を蒙って知ったのである。と言う事は、私という小舟は大海にただ一艘で漂っている存在ではない。家族を始めとする大集団の一員として、現に在るわけであり、その中からやがて独り去っていく運命の下に、生きて漂っている。 私という認識は、今や大海と舟の比喩では表現しきれない程に、膨大な広がりを見せている。地球、太陽系、銀河系、大宇宙…。人類全体も大きな疑問に挑戦し続けているが、この挑戦は限りもなく続き、恐らくは謎のままで、太陽の消滅、銀河系の変質、大宇宙そのものの変移と共に闇の中に、消えて行ってしまう、恐らくは。 そうした中での、ほんの瞬間的な存在であり、在るか無きかの微小な点である。