自分自身との対話・その十五
三島由紀夫の「金閣寺」を読んだ。巧い文章だと思ったが、深い感銘を受けることはなかった。 小説は文章によって構成されているのだから、文章が巧みであり、華麗であるに越したことはあるまい。その点で、三島は殆ど間然するところがない。だから、ケチをつけるつもりはない。 ケチをつけるのではないが、何か私の心にしっくりとこないものが残ってしまう。以前に、若い頃に読んだ時にも同様な感想を抱いたものだが、今も、今度も又同じ印象をぬぐい去る事はできなかった。 余りに 観念的に過ぎ 、作られすぎている、という思いは残る。作文としては抜群に上手い、が、それだけ、との思いが頻りにする。 念の為に、あと幾作品かを読んでみるつもりであるが、結果は同じであるような、予感がある。その予感が外れることを、おかしな表現になるが、密かに待望しているのだが……。 対比的に言うと、芥川竜之介の文章は、理知的であるとか、自己韜晦的であるとか言われる事があるけれども、隱約の間に彼の自己が露出している様が伺われて、私には何処か好ましい印象を与えてくれる。 芥川も三島と同様に技巧的な文飾を縦横に駆使してはいても、どこかに「稚拙」な部分が透けて見えていて、人間らしさを、血の通った平凡な人間の在り来りな色合いを垣間見せて、読む者をどこかほっとさせる。 その点で、三島は取り付く島もないほどの完璧さを、さもさりげなさそうに文章に盛り込むので、血の通った人間味を、少しも感じさせない。その謂わば過度に人工的な装飾過多な措辞が、人を冷たくはねつけるようで、冷血な生きる姿勢を露骨に、ダイレクトに感じさせてしまうのかも知れない。 三島由紀夫も芥川竜之介も、共に理知的であり、抜群に頭が切れる。洗練された、高度な文章世界を構築して読者に「娯楽」を提供してくれている。 しかし、文学に寄せる二人の態度には、著しく相反するものがあると思う。それは何か、非常に難しいのだが、敢えて言い切ってしまおうか。 片方は、人生の真・善・美を無条件に信頼しきっている人のそれであり、片方は、何か人間そのものの存在を全的に是認出来ず、全てに「添削」を加えなくてはいられない、ある 傲慢 極まりない精神のあり方を、どことなく垣間見せている。それ故に、彼の本質的な脆弱性を裏切り示しているのが、その文章作品なのだ。そんな風な感想を、ふと、持たせる要素がある、と感じている。 一言で言えば、不自然に過ぎるのだ。過度に自然さを逸脱しているのだ。 同じように、自殺した文学者であるが、死の謎自体にも、その人柄の全部が反映している。そう感じている今日この頃の私である。