自分自身との対話・その二十七
新約の「ヨハネ伝」まで読み進んで来ました。英文でしかも現代英語ではありませんので、日本語の口語訳を随時参照していますが、意味が取りづらい所が何箇所も出て来ています。しかし、少しずつですが聖書・バイブルの文体に慣れつつもあります。 意味が取りづらい事の要因にはいくつかの要素があると思いますが、旧約聖書の知識が決定的に不足している事が、その最大のものと思われます。「ヨハネ伝」を一応読み終えた後で、旧約を読み直してみる心積りではおりますが、第二に私はユダヤ人では勿論ないし、時代も著しく違う異邦人でありますから、イエスの言葉をそのつもりで意訳して聴く必要があります。この作業が恐らく一番難しいことなのだろうと、内心で自分自身に言い聞かせながら、用心して読みすすめています。 ただ言えることは、イエスの言葉は絶対的に正しいという、直感を得ていること。これは間違いのない事であります。だから、イエスが今、私・草加の爺に直接語り掛けたとするなら、どんな事を、どんな風に言うだろうかと、想像を逞しくしながら読んでいるわけなのだ。 それも、本質的には原文に表現されている通りが大部分なのであろうから、結局、聖書を正しく読むという一事に帰結するのである。そう、心得ている。 それにしても、人生の最晩年になって、私の愛読書が「源氏物語」と「聖書」の二つに絞られたということは不思議でもあり、当然でもある、と思うえるのは、単なる偶然ではあるまいと感じている。むしろ、必然であったと言うべきなのか。 無理なく、光源氏とイエスとは非常に類似している。いや、酷似しているとさえ感じた、或いは、感じさせられた私なのであるから。 私、草加の爺の人生の結論と言っては、まだ早すぎるのであろうが、まだまだ五里夢中状態ではあるのだが、源氏物語と 悦子 と バイブル と言った、やや三題噺めいた、おぼろげなヴィジョンが浮かび上がって来ている。この深い意味合いを自分自身で可能な限り深めていく。これが当面の私の重要な課題なのだという自覚が、いま徐々に固まりかけている、確かに。 イエスの主張は単純明快である。自分を地上に遣わした天なる父・神を信じ、敬い、その命令に従え。そうすれば、お前は永遠なる生命を得るであろう。これが、イエスの言葉のエッセンスなのだから。 そしてそれは、一人の人間として絶対的に正しい事なのだ。どうして、その正しい言葉に耳を傾けなくてよいであろう。人間の従うべき掟は単純にして、明快至極。ではあるが、言うは易く、行うに難い。至難と言って良い。行動が常に問題なのだ。 自然界の動物たちの生き方を見てみるがよい。他者を文字通りに「食って」生きている。神の命のままに。根本のところに極めて難解なパラドックスが仕掛けられている。自然の儘の人間もまた、野生の状態では一動物にしか過ぎない。他者の生命を喰うことによってしか生きられない、何人であっても。原罪とはこれを言うのであろうか? 神の仕掛けられた深い罠…、? 仏教でも無益な殺生を禁じている。当然のことであるから。自分の命を保つのに必要にして、最小限度の「殺生」だけが生物には許されている。無益とは、過剰と同義である。過剰なる殺生、それは厳に慎まなければならない。人間が人間を殺す。殺人は無条件で悪であり、罪である。これが人としての最低限度の掟である。しかし、人類の歴史は戦争と殺戮の歴史であるといってよいほどの、悪と罪の連続と言って良い。何故、そうなっているのか? 簡単だ、明快だ、それは無上・無類に楽しい行為だから。 言葉では悪と言い、罪と呼んで否定しておきながら、人は、人類は繰り返し、繰り返し、人殺し行為を際限もなく行い続けている。愚かな、ならず者の集団、それが人間、人類の本質なのかしら。 悲しいね、泣きたいくらいに。「戦争、反対」などと善人顔して唱えている無辜の民の、何と多いことか。本当に、お気楽でいいね。芯からの善人とは、能無しの代名詞なのだろうか。いや、いや、そんな筈はない。きっとない。原罪から生まれた派生的な、無自覚的な、無知のなせる業。 だから、ソクラテスに学び、無知の知を体得しよう。ああ、考えてみれば、ソクラテスも「毒杯を強制されて、つまりは、殺されてしまった」ではないか。イエスの十字架上の死と、人類の師とも仰ぐ賢人の痛ましい死は、単なる偶然であるはずもない。愚かしさの極み。私もその集団の一部である、悲しい定めに生きる、儚く、侘しい存在。悔い改めよ。そして、最後の審判に備えよ! しかし、一体全体、最後の審判とは何を意味しているのか、今の私には分からない。 一般的な解説では、ゾロアスター教及び、アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教)が共有する終末論的世界観であり、世界の終焉後に、人間が生前の行いを審判され、天国か地獄行きが決められるという信仰を言う。が、私にはよく理解できない。 つまり、真の善とは何か、本当の悪とは何かが分からないからだ。納得の行く理解が出来ないからだ。 現世では、曖昧な事柄が曖昧に処理されて、又は曖昧なままで放置されて、すっきりとした解決が得られないままで、いつの間にかあやふやに忘れ去られてしまう。だから、最後の審判のような事が行われ、明快な回答が下されるならば、生理的にスッキリするであろうとは、思うだけである。愚考する、のみ。