自分自身との対話・その三十八
神慮に依る「野辺地ものがたり」の番外編 として 「 悦子の唄 」のタイトルで発表した記事に現在ただいまの心境を若干追加した物が、今回のものです。来るものは拒まず、去る者は追わず。人生の達人にして初めて到り得る境地であるが、サルまねしているうちに、自分も達人のような、勿論、まがい物なのですが、それに近い感懐を持つたような気になれた、今日この頃である。旧約は「民数記」を目下読み進めている。 ―― 1952年・昭和27年1月29日に生まれ、2016年・平成28年4月13日に逝去した悦子は、世間で言う 死亡 したわけではない。ただ、それまでの生き方を変えただけにしか、過ぎない…。そう、生きる形式を、変化させただけ。より輝かしく、より美しく、そしてより優しく魅力的に、生きる為に―。 従来の生き方をギアチェンジして、もっと、もっと高次の、人間らしい生き方へと、昇華させたのだ…。そう、昇華させたに過ぎない。そう、そう、昔の人が天女と称していた “こころの貴族” へと、階級を、ステージを上げ、より温かく、より慈しみに満ちた、ハートウォーミングで豊満な眼差しを、地上に向けている、現在只今も、向け続けているのだ。 無論、その優しい眼差しの中央・中心には、私、克征が居る。だから私は少しも孤独なんかではない、当然ながら無い、寂しくなんかない、悲しくなんかない。勿論、無いのさ…。当然じゃないか、当たり前すぎるじゃないか……、 でも、でも、これは内緒の話なのだけれど、ときどき、ひとりっきりで部屋の中に居たりする時に、心無い涙の奴がさ、ぽとりとばかり両の目から流れ落ちたりするのだ。 本当に、仕様のない、気の利かない奴さね。 えつこ、悦子、君も先刻承知しているように、能村さんが亡くなったよ、それも奇しくも四月の次の月の13日の夕刻にだ。 何か胸騒ぎがして、スマホで 能村庸一 氏を検索したら、フジテレビのプロデューサー逝去と記事になっていたので、奥さんに電話したら、悲しげだがしっかりとした口調で、最後の様子などを教えてくれた。入院の際に僕に奥さんが連絡しようとしたら、この前会ったばかりだから、電話しなくてもよいと止められた由。 そして、6月3日の土曜日に練馬区の成増駅近くの居酒屋で、能村氏の雅子夫人と二人で 偲ぶ会を行ってきたよ。つまり、飲み会をささやかに、慎ましく、残された者同士で開催したのです 奥さんのお話では、何でも10月の3日か4日(結局、五日に青山のアイビーホールで行なわれる運びになった)に能村氏自身が生前に希望されておられた、正式な偲ぶ会が盛大に、賑々しく挙行される手筈になっているとか。だから、そのほんの予行演習の真似事をやったわけだね。その会場になったお店が、能村さん好みと言うか、しもた屋風の、外見からすればごく普通の民家と言ったお家で、内部も、昭和レトロの雰囲気を醸し出した、良い感じの内装。店主は年輩と言っては失礼かも知れないが、中年の女性がお一人で切り盛りしている。 夕方の六時に駅前で待ち合わせていたのだが、武蔵野線の遅延で5分程遅れてしまった。お店に入ると既に常連と思しき御夫婦がカウンター席に、並んで座っておられた。このお店は、木・金・土の三日間限定での営業だと、前もって奥さんから伺っていた。あまり醜態は演じたくないと可成用心したのだが、常連客と後からお店に顔を出された店主のお母様との会話など、余りに楽しかったので、例によって後半は余りよく覚えていない為体(ていたらく)振り。支払いも、トイレに私が立っている間に、能村さんの奥さんが済ませてしまっていた。 ( 遺産を、たっぷりと頂いております ) との、奥さんのお言葉でしたが、私のつもりではこの払いはこちらでしたかったが、まあ、成り行きで仕方がない。 ここ迄は以前に掲載済みの部分です。令和と年号が新しくなった年も、今日で大晦日を迎え、また新たな年を迎えようとしている。今年一年の無事を神に感謝したいと思う。本当に有り難いことだと実感する。 一年だけではなく、過ぎ去った76年余の人生に、改めて感謝の気持ちを新たにしたい。善き両親に恵まれ、最良の伴侶に恵まれ、良き理解者を得、佳き子供達を得た。これ以上の幸せが人の一生として考えられない以上、私は全人類の中で最高の果報者だと確信している。終わり良ければ全て吉と言うが、始まり良ければ全てが良いのも、また真実であろう。 どのような未来が待ち受けているかは、知る由もないが、大地震が来ようが、戦争が勃発しようが、その他の所謂凶事・災難が降りかかろうと、何事も前世からの約束事と、昔の人のように潔く観念して、この世で生起する事柄は全て、起こるべくして起こる 嘉き事 と覚悟を決めておこう。 それが、真に神を信じることに直結していると、心底から信じよう。これが私のささやかな信仰の心構えである。