自分自身との対話・その四十四
自分の顔を、自分は見ることが出来ない。だから、自己以外の存在から、自然から、多くを学ばなければならない。このことを、肝に銘じて置こう。 人類はこれまでに色々な偉大な功績を挙げてきている。しかし、反面で様々な醜悪な側面を自他に対して示していることも又、紛れもない事実である。驕りも、昂ぶりもそれなりの根拠があったにもせよ、あまり褒められた評価は、少なくとも神の目からは、厳しくも公平な絶対者からは、得られないであろう。 だから、我々は謙虚に他者から学ばなければならない。己を厳しく律して、向上させる努力を一瞬たりとも怠ってはならないのだ。 悠久の大宇宙の時間の流れの中で、太陽系の発展と終焉とはそれこそ瞬きする程の瞬間的な出来事にしか過ぎない。それを我々人類は浅知恵ながら知っている。 とすれば、我々の存在など、全人類の生存を考えた場合でも、取るにもたりない時間の内側での、実に些細なものにしか過ぎない。何を齷齪と 永生 などという詰まらない夢とも言えない夢に拘泥して、悪あがきを続ける愚を、演じる必要があろうか。考えてみるまでもない。 問題は長さなどではなく質、中身の内容なのだ。それも人類全体としてのそれ。一人や二人の傑出した人間が出たからと言って、猿の一種としての人類への評価は動かない。ゆらいだりしない。 人類と共に顕著な戦争という野蛮極まりない行為は、生物全体を俯瞰して眺めて見た場合でも、正気の沙汰とは断じて言えない。それを人類は飽きることもなく、歴史と共に繰り返し行って、夜も日も明けない如くに振舞ってきたし、これからも種の存続する限り、テロリズムと言った形態を取りながら、継続するに相違ない。 人類と殺戮行為。これはどう考えても切っても切れない相関関係の仲で、極めて強固に結び付けられている、らしい。仲間、同胞、友人から派生した同じ種の生物を、無闇矢鱈と殺し、血を流させることに無類の興味と関心とを持ち続ける、不可思議な生命体。確かに、人類はこの一点で、ユニークであり、生命体全体の中でも、独自な、非常に目立った特徴を有する。 私も紛れもなくこの 狂った生物 の末席に名を連ねる一人である。私の生まれた1943年は日本がアメリカ合衆国と激烈な殺し合いを続けていた、まさにその最中であった。 私が人間として、日本人として、極東の島国に生まれたのも、すべてが運命・宿命であって、どうにもならない事柄であった。個人にはどうにもならないことが、決定的に受身でしかいられない事柄が全部、とまでは言わないが、すべてが既定の、あらかじめ定められたレールの上に置かれていて、その上で、私も他の人と同じように 生かされて 在る。今を「仕方なく」生きてある。 そんな私に本当の意味の自由が果たしてあるのだろうか? 私に出来た事と言えば、悦子の理由の分からない激しく、強烈な愛情を受け止めたこと。それも、かろうじて、なのだが。私には、事の真相は何一つ明らかにはされていない。私に出来ている事と言えば、悦子の身に過ぎた愛情を有難かったと、感謝し、無我夢中ながらも精一杯、命を懸けて悦子の愛情に応じたこと。それだけだ。 狂った猿の仲間であっても、わずかではあっても、真実に美しい行為は可能なのだと、砂漠でオアシスに憩うつかの間の慰安の如く、平安を、心の底からの慰めを感じることが出来る。有難いと思う。 所で、我々が他者から学ばねばならないという事に戻ると、自己とはそもそも自分以外の他者の存在があってこそ、明瞭に自己を規定出来るのであって、自己をより良く知る手掛かりとなるのが、他者と呼べる物の存在であろう。 生物であると否とに拘らず、他者は色々な教えを我々に与えてくれている。唯我独尊的なナルシストには、自惚れ鏡がただ一つあればそれで済むが、謙虚に、そしてより正しくありたいと願う者にとって、己とは様々な点で相違する他者の存在が、必要にして不可欠なものとなる。生物もその最小単位を考えれば無機質、無生物なのだから、多種多様な無生物のあり方からも、我々は多くを学ぶ必要があることが分かる。 つまりそれは、多面的に自己という不可思議な存在をより多く、より深く、より正しく理解する道へと我々を導くに相違ない。急がば廻れ。 我々は無垢の幼子の如くに現世に投げ入れられ、ボケ老人の如くに忘我状態で、何処ともなく連れ去られる。それしか、有り様を与えられていない役者なのだ。それぞれが名優の筈なのだが、それすら自覚できずに大海のような薄明の中に、姿を消してしまい、酔生夢死、でくのぼうか痴呆のごとく、生きていながらその生きてある自覚も持てずに、意味もなくさすらう影法師のような 人でなし の群れの、何と多いことであろうか。目覚めよう。そして、慈悲の羊水に保護されて、己を正しく成長させよう。 それが、人間としてこの世に生を享けた幸福者の、まさしく生きる唯一の方法なのだ。 ただ、覚醒しよう。その後のことは 神 がお導き下さる。間違いなく。