自分自身との対話・その六十一
夢の話ですが、他人の夢の内容を詳しく聞いた所で、何の足しにもならないだろうと、前もって予測がつきますので、内容については省略しようと思います。 私の夢からの学びに関して、少しばかり述べてみようと思います。 昔の人は、おしなべて夢を大事と考えていたようであります。その理由は、色々とあるのでしょうが、まず人知を超えた不可思議な存在、詰まりは神仏が現実では聞こえない声で、夢の中で大切な事を告げるのだと解釈したもののようです。 私に関して言えば、夢は最近になって頓(とみ)に気になる内容を、夢に見させているようであります。夢の中で、何事かを学ばせようとしている。そう、感じさせる何物かがあるのです。私は神仏からの直接の諭しであるとも思わないのですが、人生での様々な蓄積された経験や体験から、演繹的に抽出されるエッセンスの如き物が、最近の夢の中で、何事かを私に告げ、教えている。そんな風に感じてもいる。 結局は、私が無意識に感じている事柄を、夢は結論の様に意味不明の内容として、見せてくれる。従って、私の体全体で学んだ既に「知っている」事実を、一見は唐突に指し示して、確認の作業をしてくれているものの如くである。 さて、最近の夢の「教え」は、要約すれば、この世で生きるとは、「遊び」である。従って、よく遊び、そしてよく学べ。それが人生で最も肝要な事だ、とごく簡明に教えてくれている。 で、私はそれが実行できたか。もしくは、よく遊べたか。よくは解らないのだが、兎に角、努力だけはしたし、これからも、命のある限りは、その努力を継続する所存であります。 遊びとは、人生に於ける遊びとは、通常考えるようなお気軽なものではありませんで、真剣そのもの。命懸けのある種危険なのめり込み方を、必要としている。だから、遊びに輝きが生まれ、生きる楽しさや、生きる苦しささえも大きな喜びと変えてしまうのだ。 そうした意味で、純粋な命の燃焼を要求する、命懸けに値する、掛け値なしの生き方なのであります。 こんな風に書くと、何かしら小難しく、容易には誰もが実現できない、そういう意味で近寄りがたく、困難な生き方の様に感じるかも知れないが、さにあらず。 この世に生を受けることを許された者であるならば、何人にも可能である素晴らしい生の消費の仕方であり、これ以外にこの世を享楽し尽くす行き方は、先ず有り得ないのです。 貴方の心掛け次第とも言って言えないこともないのだが、そんな取り越し苦労さえ、本当は無用なのであります。ごく自然に、素直に、ありのままの自分を気兼ねなくさらけ出すことさえできれば、能事終われりの事柄なのであります。 私たちはこの世に、ある種のエリートとして生まれて来ているわけなのですから、余分な、そういう意味で無駄な力を抜けばよい。あなたに本来備わっている力は、自ずからに発揮されて、すべてが、万事が上手く運ぶように仕組まれている。約束されている。ドントウォーリー、生まれた時の自分に還って、莞爾として微笑みを浮かべさえすればよいのだ。どうです、自信が帰ってきましたか? しからば、今現在苦しみや困難などを抱えて苦しんでいる人に関しては、どうなのか。と問われたら、私はまた、何の躊躇もなく次のようにお答えしたい。 困難や苦しみこそはこの世での最高の贈り物だと。苦しみは最高の喜びの別名であり、困難は一番の楽しみを約束された、謂わば約束手形のような物。その大きさこそが、貴方の人間としての器の大きさを証明する、身分証明書の如き物であります。誰がその証明書を与えたのか、ですって? 勿論、神様であり、仏様なのでありますが、信じる力を喪失してしまっている人には、あっても役に立たない。本当に、勿体無いことであります。 元来が私たちには神仏を信ずる力が備わっているものなのですが、自分を、人間そのものを信じる力を失っている者に、神仏を信じる力など残っている筈もない。悲しい、現実であります。 幸せの青い鳥は私たちの直ぐ身近にいるのに、そしてその事実を本能として知っている癖に、その本能すら力を無くしてしまっているとしたなら、私たちはどうしたらよいのでしょうかね、一体全体。 神仏の存在など信じられないと公言する御仁が、エーリアン、地球外知的生物の存在なら、容易に信じられるそうだ。それが現代流の在り方だとしたなら、何をか言わんやであります。何を言った所で、虚しい、砂を噛むような思いをするだけにしか過ぎませんね。 夢の話から今回も始めましたが、私は幸せなことに、夢の中ですら自分を生きた幸せをしみじみと、噛み締めている。何と恵まれた、幸福者なのであろうか、私という人間は ―― そんな具合に感じながら夢見ている。この世にお目出度い人間がいるとすれば、この私を置いて他にはないな。そう、夢にまで見るくらいですから、実際に「おめでたい」に相違ない。だって、本当にも嘘にも、そう感じているのだから仕方がない。 他人から、「あいつは実際、おめでたい奴だよ」と影口をきかれようと何しようと、もう私の勝ちなのです、実際の話が。 「呆れて、もう、開いた口が塞がらないよ」、「馬鹿もまあ、あそこまで行くと、手がつけられないね」、云々、かんぬん… 人様から何を言われるよりも、自分が幸福だと実感できるほど幸福な事はない。だから、私は世界一幸せな人間なのであります、事実として、実感として、 今、私の勝ち、だなどとついうっかり書いてしまいましたが、本当は、有り様は、勝ち負けなどの問題ではなく 絶対的な事実 であり、それゆえに動かしがたい真実なのであります。 いつも誤解の多い弁舌の多い私ですから、ここでも念の為に、釈明しておきますが、私は断じて他人との比較において物申しているわけではありませんで、私にとって事実であり真実であることは、誰においてもそのままで通用すること。そう思っているだけのことです。 この世に生きていて幸せを実感していない、もしくは、不幸だと感じている人がいるとすれば、事実、多くの人がそう感じたり、思ったりしているようですが、それは何かの間違いであり、大きな勘違いでありますから、しばし、暫くの間で結構ですから、御自分の胸に手を当てて、考えて見て下さい。 考える、とは対象としっかりと向き合う、正対する事を意味します。しっかりと相手を見据えて、穴の開くほどに見詰、観察し、熟考する、途轍もなく根気のいる作業なのです。 大概の場合には、今書いた厳密な意味合いでの「考える」までしなくとも、御自分の実相に容易く気づく筈なのですが、病膏肓に入るという表現がありますので、そのような状態のお方は、大変な努力と覚悟とが必要となるでしょう。事実、現代では、病みに病んだ今日では、恐らくはご自分の実相にぶち当たることすら、死ぬ程の困難を伴うかもしれません、実際の話が。 以前、私は人助けと考えて、「幸福への道案内人」を自称して、実際の活動も少しばかりやって見たことがありました。結果、少々、考えさせられる事がありまして、止めることにしたのですが、これは私のお節介根性が過ぎた、と反省する所もあり、後に考えてみると、神仏とその人との関係性の問題だったと気づかされたのでもあります。 すべからく、この世でのことは、成るべくしてなっている。改めて、思い当たった次第なのであります。相手から、仮に頼まれたならば、相応の対応を考えるべきなので、頼まれもしない事柄に、こちらから嘴を挟んで、介入する事は遠慮すべきなのでありました。好意も時としては、仇となる場合もあるのですから。 こういった次第で、目下は、自分だけのごく身近な事柄だけに限定して、生活しているのですが、何時なんどき、またぞろ、お節介の虫が疼き始めるかは、思案の他なのでありますが、その実、そんな機会を密かに心待ちにしているかもしれませんから、バカは死ななきゃ治らないのでしょうね、きっと。