自分自身との対話・六十九
先日、お盆の入りに、次男夫婦と一緒にお墓参りに行ってきた。毎年の行事で、格別の思いはない。けれども両親を始め、身近な、大切な人々の遺骨が安置されている場所に、一年に一度ではあっても、詣でることには意義があると思う。 そもそも我が家のお墓は、悦子が私の母親のために、苦しい家計の中から捻出して、当時としては相当の金額で購入してくれたものである。我々が結婚して間もない、まだ新婚と言って良い時期の事だ。 だから、と言う訳ではないけれども、悦子が逝去した際に、あと数年で 墓仕舞 しようかと考えたことがある。悦子が始めたのだから、悦子の終焉とともに、綺麗さっぱりとお墓とも縁を切ろうと。 それに、子供たちがこのお墓に縛られて、自由な行動が取れなくなって仕舞うのも、気の毒千万なことと愚考したせいもある。しかし、今年も御墓はもとのままで、最初に述べた如くに、次男と共に墓詣をしているくらいだから、悦子の親孝行の記念碑は継続して、存在している。 何故か? 考えてみれば、何も墓仕舞を急ぐにもあたらないだろう。そんな気分に次第になったからである。それに、次男も、私が何も言わない先に、お盆には墓参りに行く予定を決めて、せっせと通ってくれている。大船に住んでいる長男の方は、私から、無理をして一日掛りの大旅行になる仕事を、幼い孫二人連で無理にするには当たらない旨、既に伝えてある。 何事も、無理をせずに自然体で行く。これが私の流儀と言えば流儀なのだ。泉下の故人達も了解してくれているものと、勝手に決めてしまっている。形式だけ見栄えが良いようでも、肝心の心が疎かになっていたのでは、それこそ「仏作って、魂入れず」になってしまうだろう。 数年前、私が墓仕舞を真剣に考えていた時期に、長男がお墓を鎌倉に移そうかと、提案して来た事があった。小さなお墓と言えども、新たに買うとなれば馬鹿にならない値段を、支払わなければならない。新しく住宅を建築する長男夫婦にとって、過重な金銭負担をかけてしまう。それは、親としては出来ない事、いや、しては、強いてはいけない事である。 生者との付き合いも、死者との交流も、ともに金銭が物を言う娑婆世界であるが、肝心なのは、心の在り様であり、真心の真に籠った、対応であろう。これは、私の信条であり、子供や孫にも受け継いで貰いたい。そう、思っている。見栄を張っても、何の得にもならない。外見は貧しくとも、心の錦と、どうせならこっちの方で精々見栄を張ってみたい。その方が、同じ見えでも、見えの張甲斐があろうというものだ。本当は、見栄がどうのと言うよりも、人間としての心の持ち方の基本と考えるのが、真心の磨き方と心得るからである。 所で、またもや夢の話である。なんと、私がプロデューサーから一大抜擢されて、時代劇の新人監督に起用された。そんな内容である。 現役当時の私に、そのような「野心」はなかったのでから、夢とは実に奇妙なものだと思う。正直な所で今の私は演出家や監督と呼ばれる職業に対する必要以上の尊敬の念はない。黒澤 明や小津安二郎などと言った少数の監督を除いたら、後に残るのは異常に「プライド」だけが高いエセ職人の集団が残るだけだからである。特別に偉そうに言っているわけではない。身近でその生態に接し、交流もある程度はしてきた実感である。だから、誰かから好きなだけ予算を出すから、デレクターをやれと言われたら、喜んで引き受けるだろう。その際には条件がある。私の書いたシナリオであることと、スタッフ、出演者は全て私が面接した上で、決めること。そうしたら、映画史上に残る名作が出来上がることは間違いのないことだから。その為の「門前の小僧」だったような気がしているのだ。故人になられてしまった能村庸一氏がプロデューサーだったら最高に楽しい仕事になるだろうが、これは夢の、その又夢の話になってしまう。でも、存外、冗談のように聞こえるかもしれないが、本音中の本音なのかもしれない。 何処かに、私に全権を委任する酔狂極まりない御仁がいないものか。無駄を承知で一声発して置くのも何かの足しになるかも知れない。これ、決して冗談事などではありませんので、それじゃあ、と内心で思われたなら、一声お掛け下さい。逃げも隠れも致しません。そして、これは私個人の問題ではなく、世の為人の為になる事でして、労力や資源の濫費とは性格を異にするものであります。 所で、イエスキリストは平和ではなく、剣を世にもたらすためにこの世に来た、と断言された。また、富んだ者は天国に入れない、とも言っている。どういう意味だろうか? そしてまた、敵に対する愛を説いた。凡人には至難の業を敢えて教えの中心に据えている。何故なのだろうか、これも同時に考えてみたい。無理難題と見える教えを説く彼の本当の目的は奈辺にあるのか?一度は、誰もが真剣に考えてみる価値があるのだ。出来れば、何度でも…。 平和は天国においてこそ完全に実現されるもの。この世で必要とされるものは、まさに力であり、剣なのだ。神の絶大なる力をもってすれば、人間の、カエサルの権力など、問題にもならない。イエスを通して天上の父は「カエサルの物はカエサルに」と言わせている。地上での一時的な支配力など、物の数にも入れていない絶対者から見れば、児戯にも達しないこの世での権力など、最初から問題にもならない。 更に、敵とは一体何者であるか。最大の敵は己自身である。さすれば、そのワーストハーフを哀れみ、愛するのは必然ではないか。 イエスの言葉は一見謎に満ちているが、正論中の正論であった。私に言わせれば、言葉の達人。それ故に正真正銘の詩人であった。初めに言葉があった、そう聖書は述べているのだ。 人間は神に近づく事は出来る。しかし、神に取って代わることは出来はしない。私たちは自分自身をこそ知らなければならないのだ。それも、神という完全無欠な存在者の絶大なる力を借りなければ、何事をも成し遂げることは出来はしない。一個の人間は不安定で独り立ちさえ容易ではない。そして、結婚という神に由来の神聖なる儀式を経由して、或る安定した存在として、確かな歩みを確保できるのである。 とすれば、神を信ずる、信じない以前に、神との黙契は既になされているわけで、本人の自覚の有無とは別個に「契約」はなされている事実に、気づかなければならないのだ。 これは、なになに宗という所謂既成宗派とは、何の関係もない。と、言ってしまっては身も蓋もないことで、真実の、ただ一つの信ずべき対象を、全身全霊を以て只管に信ずる。その中から、人間としての正しい歩みと、方向とが与えられる。当たり前と言うよりは、むしろ当然の理である。 五里霧中という言葉があるが、それは人間の主観としてそう見えるわけで、客観的には明瞭な光が前もって与えられ、進むべき道は自ずから見えているのである。 神は、御自分の姿に似せて人間を作られたと言う。そうでもあろうが、あまり糠喜びをしない方がよいだろう。見えていて、見えない。聞いていて、聞こえない。これは我々の自然な、生まれながらの悲しい在り方だと言う事を、銘記しておこう。 我々は、生まれながらにして神と共にある存在である。だから、少なくとも神の方からすれば、自分を忘れて貰っては困る、わけである。所が、人間とは、何時、何処の生まれであろうとも、肝心要の、この有難い絶対者の存在を忘却して、勝手気ままをやらかしてしまう。今までもそうだったし、これからもそれは変わらないであろう。神とは根気強さの権化なのだ。それはまさに父の名に相応しい。 地上では有るか無きかに微弱化した父権であるが、本来はそうした性質のものとしてあった。 差別と区別とは厳然として、分けられるべきカテゴリーである。何でもかんでも平等が良いと主張する悪平等の亡者たちよ。心して、本来の正常な判断力を取り戻すべく、努力せよ。 絶対者でない者が、絶対者の猿真似をした、恐るべき歴史の教訓を思い出すがよい。 自分自身との対話と題して、書いているのだが、それは結局、神・絶対者との対話にほかならない。そうならなければ収まりがつかない大きな、大きなテーマだった。 だから、いくら書いても書ききれない最終のテーマであって、私の手になど負えない事だと得心したのだが、やはり神の使い姫であった悦子に手を引かれながら、どうやらこうやら書き進めている次第であります。いつまでの寿命とも分かりません。けれども、与えられる時間の許す限りは、精々頑張りますので今後ともに宜しく御愛読を、改めてお願い申し上げます。 お盆に当たり一句。 ありがたや 生きるも死ぬも 酷暑かな 静峰二世